「デザイン」をアンラーンしよう:連載『「計画」を超えて』第6回(最終回)
「デザイン」をアンラーンしよう:連載『「計画」を超えて』第6回(最終回)

「デザイン」をアンラーンしよう:連載『「計画」を超えて』第6回(最終回)

2022.03.30/7

「事前に計画すること」は、わたしたちのいま・この瞬間に焦点をあわせる感覚を弱体化しているのではないか? そんな問いを起点として「計画」に対抗して生きるための知を探索していく、上平崇仁さんによる本連載。その最終回となる第6回では、これまでの議論を振り返りながらも「いま・ここ」に生起するデザインの可能性と、社会全体で「デザイン」に対するアンラーン(学びほぐし)を進めていくことの重要性について上平さんが語ります。


本連載「計画を超えて」では、あえて一般的な考え方とは逆の視点から生活者目線のデザインのあり方を探ることを試みています。これまで、以下のようなテーマで綴ってきました。

第1回:「計画」に対抗して生きる。イマ・ココを味わう身体感覚を呼び戻す
第2回:リフレクションは〈誰〉がするのか? わたしたちの中に存在する「2つの自己」にまつわる問い
第3回:「地図」が旅行者の動きをコントロールする時代に、「状況論」から学べること
第4回:一期一会の世界との出会いに応答していくために、前景化されない「身体」の声に耳を澄ます
第5回:世界に応答するインターフェイスとしての「身体」と「創造」の関係性を探る

ということで、第6回となる今回は連載のまとめに入ります。これまでの議論をふりかえりつつ、その先に見える地平について検討してみます。

ここまでのあらすじ

本連載は一応、“デザイン”の読み物ということになっていました。といいつつ、前述の連載タイトルを見ても、最近のデザイン業務に役立つようなキーワードが入っているわけでもなく、多くの人の関心には引っかからないかもしれません。あえてそうした辺境的な領域を扱ってきたつもりです。

これまでの記事で繰り返してきたように、さまざまな場で「計画」することは前提です。ものごとを念入りに予測し、計画した上で実際の行動へと移されるプロセスは、現代社会の基本的な手順とも言えるでしょう。それらは効率を上げ、大規模なものごとを段取り的に進めるためには重要なことです。

しかし、大きな誤謬として、計画者が想定した理想的な段取りと、それを使う人の行為は実際には関係がありません。人の行為は、特定の状況の中でその都度構成されています(第3回)。そして状況は静止しておらず、常に変化し続けています。便宜的にスコープを狭めてシンプルにデータの差異を切り取ることはできるにしても、周辺の文脈が変わればもう再現される理屈は成り立ちません。

そもそも出来事ひとつとっても、さまざまな要因が連関しあって成されており、何かの問題を定義してそれを解決したところで、その解は別の問題の引き金となるだけです。日常は、いわゆる「厄介な」問題(wicked problem)であふれています。そして結局のところ、製品開発をどこまで緻密に進めようが、その製品が投入される先の世界はカオスに満ちています。市場は無政府状態なのです。

そう考えれば、計画を成り立たせている「予測」は、世界が説明可能であるという強引な前提に依存していることに気づかされます[1]。わたしたち生活者は、計画者の意図に従属するだけでなく、その連関し合う世界に応答し、その都度立ち上がる可能性について、もっと敏感になる必要があるでしょう。

こうした柔軟な捉え方を支える理論として、「いま・ここ」を感じている経験の自己による省察〈リフレクション・イン・アクション〉の重要性(第2回)や、人の認知や学習を個人の頭の中の処理過程とみなすのではなく、実践や相互行為、道具の組織化として見ていこうとする〈状況論〉の視座を紹介してきました(第3回)。そして世界の捉え方のバランスを組み直すための実践として、〈身体性〉に着目することや(第4回)、身体を積極的に用いた活動を接続させてきました(第5回)。

世界は、加速し続ける

我々が自分の生を実感できるのは、その瞬間だけです。食べ物の美味しさを味わうことができるのも、「ああ、いい気持ちだ、幸せだ」と感じれるのも、本来的には現在の自分にしかできません。なのに、なぜ現代社会に生きるわたしたちは、「いま・ここ」にあるリアルな現実を華麗にスルーし、前方へ、前方へとどんどん駆り立てられていくのでしょうか。

どうやら、現代の主流の価値観である資本主義社会の構造に起因するようです。資本主義は基本的に「いま・ここ」の現実から「いつかどこか」の未来の利得へと追い立てます。テクノロジーはその願望に応え、どんどんスピードアップしていきます[2]。その根底的な構造のなかでは、社会も組織も競って前へ向かうような志向性を持たないことには、〈富〉にはアクセスできない仕組みです。

フランスの思想家、ポール・ヴィリリオは、こうした体制を「速度術(dromologie)」と名付けました[3]。世界は速度で駆動する。我々は速度を上げるテクノロジーを使っているようで、速度に支配されている。人数があまり多くなかった西欧の人間が優位性を持ち、支配的であるように見えたのは、より速い者として現れたからである。だが、そうした速度競争もいずれ交換可能な運搬能力の最大値に達して止揚される、と不気味な予言をしています。

「速度体制的なタイプの進歩が現実化するに伴い、人間は多様であることをやめるようになるだろう。事実上存在しているものとなるために、人間の分割はもっぱら、希望を抱く人々の間でなされなければならないだろう(希望を抱く人間だけが、将来や未来に到達する希望を抱くことを許されている。彼らが資本化する速度が彼らの可能性の接近、すなわち、投企、決意、無限への接近を許すのだ。速度は西欧の希望である)。そして絶望した人々は、彼らの工学的運搬手段の劣性ゆえにブレーキをかけられ、有限の世界に住み、生きる。」

――ポール・ヴィリリオ『速度と政治―地政学から時政学へ』市田良彦訳 平凡社ライブラリー 2001 P75

ヴィリリオが速度社会の到来を論じたのは、半世紀ほど前の1977年。情報戦争の中でスピードアップし続け、富の偏在が進んでいったこと[4]や、世界が均質化したことを鋭く言い当てています。

みんな気づいていることではありますが、どんなに便利になっても、いっこうに落ち着かず、慌ただしさが年々増していくことの根底にあるのは、確かにそんな理由なのかもしれません。ただ、ロジックとしては見事ながら、大多数の取り残される側にとっては何の救いもありません。わたしたちがこの過酷な速度社会に立ち向かうために、どんな振る舞いをとれるのかを探ってみることにしましょう。

「いま・ここ」を生きる姿勢の再評価

時空間の捉え方は、人類一般に普遍的なものではなく、どんな風に世界を捉えるかの文化がもとになって形成されているようです。たとえば文芸評論家の加藤周一は、始まりと終わりのある直線の「ユダヤ教的な時間感覚」と比較して、「いま・ここ」を強調することこそが、日本文化の特性だとします[5]。

日本社会には、そのあらゆる水準において、過去は水に流し、未来はその時の風向きに任せ、現代に生きるつよい傾向がある。現在の出来事の意味は、過去の歴史及び未来の目標との関係において定義されるのではなく、歴史や目標から独立にそれ自身として決定される。

<中略>

かくして日本では人々が「今=ここ」に生きているように見える。その背景には、時間においては「今」に、空間においては「ここ」に集約される世界観があるだろう。世界観は文化によって異なる。

――加藤周一『日本文化における時間と空間』岩波書店 2007 P3

こうした特性から、日本人は、「全体」を見ることよりも「部分」を先行させる心理的傾向がある、と加藤は批判的なニュアンスを込めつつ論じています。多くの人が、「いま・ここ」と言われて引っかかる理由はこれでしょう。視野を広げてもっと全体を見ることの方が大事だよね、そう言われ続けてきたじゃないか、と。

しかし、同じことでも違う角度から見ると、見え方も変わり、短所も独自の長所となります。江戸時代初期に生きた臨済宗の沢庵宗彭(1573-1646)は、当意即妙な対話をすることで広く慕われた高名な禅師で、漬物の「沢庵漬け」の語源として現代にも名を残しています。沢庵は、武将の柳生但馬守宗矩に対して、剣術における究極の境地は,禅の無念無想の境地と同じである〈剣禅一如〉と説き、〈前後際断(ぜんご・さいだん)〉という有名な言葉を贈っています[6]。

前後際断と申す事の候。前の心をすてず、又今の心を跡へ残すが悪敷候なり。前と今との間をば、きつてのけよと云ふ心なり。是を前後の際を切て放せと云ふ義なり。心をとゞめぬ義なり。

〈現代語訳〉
前後の際(きわ)を断つという言葉があります。前の心を捨てないことも、今の心を後に残すことも、良くありません。それで、前と今との間を切ってしまえと言う意味です。以前のことに心を惹かれる事は、心を止めることです。そこで前の心が後に尾を引かぬよう切り離して、心を止めぬ心がけを言ったものです。

――沢庵『不動智神妙録』 池田諭訳 タチバナ教養文庫1975 p.81.

過去を引きずるのも、先のことを憂うのもすべて心を惑わせる雑念なのだから、「いま・ここ」を生きることに専念しなさい、と。不動智とは「一つの所にとどまらず動きたいように動きながら、何物にも動かされることのない智慧」のことです。確かに武道の人たちは、生死を超越して相手と対峙する瞬間の中に生きています[7]。

禅の文化が、今の日本人に知識としては残っていても、残念ながら親しみ深いものではないでしょう。独自の文化資産も近代化が進む中で、上書きされて消えつつあります。

でも、こうした見方は、今の時代にこそ有意義だと思うのです。視野が狭いと言われようが、ものごとは向き合い方次第です。であれば、やり直せない過去や、起こるかどうかわからない未来への思い込みから逃れ、自分らしいパフォーマンスを発揮するためのひとつの心の持ち方として、前後を断ち切り「いま・ここ」に生きる姿勢は、積極的に再評価してよいのではないでしょうか(注1)。

身体の反復が、心身の調和を取り戻す?

もうひとつの理由もあります。わたしたちは豊かな想像力を持ってしまったために、それを駆使して、本来はしなくていい余計な方向にも心の負荷をかけがちです。過去の辛い記憶を思い出して何度も反芻したり、未来のことを思い描いて取り越し苦労の心配をしたり。心の不調を感じる人が増えてきたのも、可塑性に富む脳と、変化の遅い身体のギャップ(第4回)が関係していると思われます。

興味深いのは、「いま・ここ」に集中し身体活動を優先させることが、精神を癒やしていくことです。例えば、大きなストレスがかかったとき、たとえば、登山、寺社巡礼、筋トレ、ヨガ、水泳、ジョギング、土いじり、草刈り、みじん切り、金属磨きなど、何かを反復する単純作業、すなわちリズム運動を好む人は多いはずです。リズム運動によって無心になることは、悩みを(ひとときだけでも)忘れさせてくれます[8]。

逆に言えば、多くの人は、まずは身体を反復させることが心身の調和を取り戻すための得策であることを経験的に学んでいるとも言えます。この観点は、心身のウェルビーイングと密接に関係しており、今後もっと浮上してくるはずです。やはり、〈前後際断〉をはじめ、世界が加速しはじめる前に存在したものの中に、忘れられたさまざまな知恵が埋まっている気がします。

「いま・ここ」に生起するデザイン

さて、デザインに話を戻しましょう。代理人業として行われる産業の中だけでなく、わたしたち生活者が生きる個別の現実の中にもデザインは活かせます。ところがそうした視座はあまり焦点化されてきませんでした(注2)。大型書店でデザインの棚を眺めれば、多くの本が並んでいます。その多くがどう作るかの技法書や事例紹介です。プロフェッショナルなデザイン業務、つまり体験の再現性の高い“大規模な”人工物や、“大量に複製される”ものごとを提供する側から、セオリーが語られています。こうした業務で蓄積された知見と、生活者が学び、変化していくための知見は、同列で捉えられるものではないでしょう。

例として、身近な「加湿器」を考えてみます。メーカーに所属するデザイナーは加湿器をデザインする際に、人間中心デザインプロセス(HCD)や各プロセスにおける方法論を適用するかもしれません。それによって多くのユーザーが期待する体験、使いやすい操作方法、空間に馴染む洗練された筐体などを開発できれば、組織的な量産を可能にし、利益を上げることに貢献するでしょう。

一方で、生活者の側は、空気が乾燥しているとき、その優れた加湿器を必ずしも買う必要はありません。個人の知恵で、ハンガーと濡れたタオルのように有り合わせのものを組み合わせて工夫したり、あるいは、いくつかの材料から電気を使わない加湿器を自作したり、他にもいろんな手段を講じることができます。それらは作業的には決して難しくないのですが、実際にトライしようとするかどうかの判断は大きく分かれるでしょう。そこにあるのは原初的な意味でのデザインです。あるいはその状況における“受動的な創造性[9]”として、「ブリコラージュ」とも呼べます[10]。

原初的なデザインは、主客が入り混じった野性の中に息づきます。人が環境を対象化し、異なる秩序を与えようとすると同時に、環境を構成するモノや人間以外の存在から人の方も対象化される、そんな連関的で偶発的な「いま・ここ」に生起する世界です。そこに対峙する生活者は、試行錯誤の経験を通して「なんとかする」能力を獲得するでしょうし、逆に、前方へと追い立てられ、“ユーザー”となってしまった人は、その従順さ故に、その豊穣な世界の訪れを察知することはできないでしょう。

デザインをアンラーンしよう

加湿器は、たまたま空気が乾燥している季節柄、私の目に止まったひとつの例にすぎません。一言で「デザイン」と言っても、このようによく観察すればそれぞれの志向する先の違いがあるにも関わらず、混同して語られがちでした[11]。教育の場でも、「デザイン業務のやり方」を解説した事例が一般人(生活者)向けとなる構図は、今でも少なくありません。

デザインは、固定されたものではなく、つねにさまざまな葛藤の〈あいだ〉に宿ります[12]。しばしば過剰に期待が乗せられがちなこの言葉のアンラーン(学びほぐし)を、社会全体で進めていくことが必要なのではないでしょうか。つまり、デザインすること/されてしまうことの力関係や、それらによって「いま・ここ」で実際に起っていることを自覚的に問い直すことです。

そこで、改めて思うのです。できることは、もうそれほど残ってないかもしれない。それでも生の実感は最後まで残っているはずです。そこで起こっている現実性(アクチュアリティ)のある喜び、あるいはその裂け目に対する悲しみなどは、わたしたちが正気である限り、最後まで手元に残る。だからこそ、自らが環境に接する瞬間とそこで応答できる可能性を見落としてはならない、と。本来他者をケアすることに満ちたわたしたちの手や身体を、誰かによる想像上の計画をなぞるだけのものに格下げしてしまわないために。


注1)これを体現する表現活動として、インプロビゼーション(即興演劇)がある。沢庵の理論は、インプロビゼーションの創始者キース・ジョンストンに影響を与え、インプロの理論的背景ともなっている。インプロ研究者の高尾隆は、キース・ジョンストンが今でも『不動智神妙録』を推薦書籍のひとつにあげていることを紹介している。
https://domingolabo.net/book-johnstone/

注2)ここにフォーカスした重要な試みとして、島影圭佑によるキュレーション「現実の自給自足」展(2022年2月14日〜24日)がある。以下、展覧会公式サイトより引用する。

“個別の現実を生起するためのデザイン—。目が見えづらくなっても様々な支援技術を組み合わせたり、他者とのコミュニケーションを粘り強く工夫し続けたりすることで、自らの仕事や生活を構築すること。自らが向き合わざるを得ないことに対してメディアテクノロジーの私的な造形を通じて考えること。<中略> 本展では、このような実践やそれによって生まれた制作物を扱い、企画運営者である島影自身がその実践者と戯れながらワークショップ、公開インタビュー、上映会などを通じてその知や方法論を社会にひらいていく。それによって私たちの「”現実”の自給率」が上がることを願って。”
https://note.com/keisukeshimakage/n/ne1df30acc389

___

参考文献
[1]ティム・インゴルド『生きていること』 柳澤田実 柴田崇, 野中哲士, 佐古仁志, 原島 大輔, 青山慶 訳, 左右社2021 P183
[2]古東哲明『瞬間の哲学―〈今ここ〉に佇む技法』筑摩選書 2011
[3]ポール・ヴィリリオ『速度と政治―地政学から時政学へ』市田良彦訳 平凡社ライブラリー 2001
[4]トマ・ピケティ『21世紀の資本論』 守岡桜 ・ 森本正史・山形浩生訳 みすず書房, 2014
[5]加藤周一『日本文化における時間と空間』岩波書店 2007 P3
[6]沢庵『不動智神妙録』 池田諭訳 タチバナ教養文庫1975
[7]齋藤実、上平崇仁「態度リサーチ#2 / “構え”は何を決めているのか、について剣士に聞く」
[8]シンポジウム:リハビリテーション促進的薬物治療の新たな展開 / 第 47 回 日本リハビリテーション医学会
[9]ブリコラージュで実現する、「対話」と「受動的な創造性」に満ちた組織──文化人類学の知を組織づくりに活かす方法
[10]クロード・レヴィ=ストロース『野生の思考』 大橋 保夫 訳, みすず書房 1976
[11]上平崇仁「「当事者」をとらえるパースペクティブ―3つのデザインアプローチの比較考察を通して」デザイン学研究特集号 26 (2), pp.34-39, 2019 日本デザイン学会
[12]上平崇仁「さまざまに枝分かれし続けるように見える「デザイン」のもっとも根幹となることは何か?」TAMA DESIGN UNIVERSITY 2021

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プロフィール:
上平 崇仁

専修⼤学ネットワーク情報学部教授。大阪大学エスノグラフィーラボ招聘研究員。グラフィックデザイナーを経て、2000年から情報デザインの教育・研究に従事。近年は社会性への視点を強め、デザイナーだけでは⼿に負えない複雑な問題や厄介な問題に対して、⼈々の相互作⽤を活かして⽴ち向かっていくためのCoDesign(協働のデザイン)の仕組みや理論について探求している。15-16年にはコペンハーゲンIT⼤学客員研究員として、北欧の参加型デザインの調査研究に従事。単著に『コ・デザイン― デザインすることをみんなの手に』がある。

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