戦略や戦術、ロジスティクスから営業部隊といった表現など、現代の経営やビジネスにおいて、軍事用語に起源をもつ単語や比喩表現に用いられることは一般化しています。しかし、現在のビジネス環境において、軍事的組織の特徴の1つである上意下達の指揮系統を中心とした組織体制では、対応が困難化しつつあります。
CULTIBASEでは、こういった「軍事的な世界観」を脱却し、人々が好奇心を生かして、物事を長く楽しめる世界を「冒険的な世界観」とよび探究しています。
実は経営学も最初から「軍事的」だったわけではありません。
では、軍事的な考え方や表現は、いつ、どのような背景からもたらされたのでしょうか。
それ以前にはどのような捉え方があり、これからはどのようになっていくのでしょうか。
本連載では、「軍事的」なルーツを含め、様々な時代の経営をめぐる言説(理論や概念など)において、経営がどのように捉えられてきたのか──「経営観」の変遷を近畿大学経営学部教授・山縣正幸さんとたどります。
連載第1回では、古くからあった経営の姿や会社制度の誕生など、「経営」の起源を探ります。
0. 追いかけたい問い
みなさん、こんにちは。山縣正幸(やまがた まさゆき)と申します。
近畿大学という大阪にある大学の経営学部で教員¹をしています。私のもともとの研究領域は、経営学史です。
経営学史とは、経営をめぐるさまざまな理論や概念などがどのように生まれたのか、さらにそれらが現代における経営を考えるうえで、どのように活かせるのかといったことについて考えるアプローチです。
この連載では、経営をめぐるさまざまな言説(理論など)において、経営という現象がどのような観点から捉えられてきたのかという問いを軸にして、その歴史的な展開をたどってみたいと思います。
これにより、経営への多様な観点が浮かび上がってくるでしょうし、その観点の違いが経営実践にも影響を及ぼすことを明らかにできると考えています。
みなさん、おつきあいのほど、どうぞよろしくお願いいたします。

山縣 正幸
近畿大学経営学部教授/デザイン・クリエイティブ研究所/経営イノベーション研究所
1976年生まれ。関西学院大学大学院商学研究科博士課程後期課程をへて、2008年に同大学より博士(商学)を授与される。専門は、経営学史・経営学原理。ドイツ語圏の経営学の展開について研究。2016年ごろから、サービスデザイン、デザイン経営についても研究や実践にかかわるようになる。最近はアントレプレナーシップへの美学的アプローチにも関心を抱いている。2017年から2024年まで経営学史学会理事。同学会による経営学史叢書第II期編集委員を務める。
それ以外に、国立能楽堂の解説パンフレットの執筆を2016年から継続。八尾市産業振興会議の座長(2020年〜現在)なども務めている。
著書に『企業発展の経営学』(千倉書房、2007年)、『バーナード』(藤井一弘編、経営学史叢書第VI巻、文眞堂、2011年、共著)『DX時代のサービスデザイン』(廣田章光/布施匡章編、丸善出版、2021、共著)、『経営学の基礎』(片岡信之編、経営学史叢書第II期第1巻、文眞堂、2022年、共著)、『ドイツ経営学入門』(海道ノブチカ/山縣正幸、文眞堂、2025年近刊)など。
1.古くからある“経営”
“経営”というと、多くの場合、企業のことを思い起こされるのではないでしょうか。
実際、“経営学” という学問が誕生したのは、事業規模の拡張=大企業化が進展した時代と重なり合っています。
その意味で、みなさんが経営=企業の問題の解決とイメージされるのは、自然なことです。この点はまた追って説明します。
その一方で、経営という現象はもっと古くからあったともいえます。
“経営” という言葉それ自体は、古代中国の『詩経』(大雅、霊台)にもみられます。
そこでは周の文王が霊台(天文台あるいは物見台)を建造する際に、「之を経し、之を営す」と表現されています。経は“たていと”と読むことからもわかるように、線を引く、そこから測るといった意味を持ちます。営は周りを取り囲む、そこから造るという意味を有しています。
つまり、何かを構想し、それを実現していくことをあらわす言葉として“経営”という言葉が登場したわけです。
ただ、この出自からも推測できるように、経済的な側面というよりは、領地あるいは建物などを対象とする面が強かったのも確かです。日本の鎌倉時代の貴族で、超一流の歌人であった藤原定家の日記『明月記』にも、荘園や寺院を「うまく運営していく」という意味合いで“経営” という語が使われています。
また、古代ギリシアでも“経営”に近い発想や議論はありました。
古代ギリシアのクセノポンによって書かれた『家政論(家政管理論)』では、国家、つまりパブリックな体制ではなく、家政というプライベートな体制をどう運営していくかが論じられています。
この時代には、もちろん近代的な企業はまだ存在せず、家、せいぜい工房レベルの組織体が存在しているくらいでした。この “家政” を古代ギリシアではオイコス(oikos)と呼びました。
完全な自給自足が困難な人間にとって、生きていくうえで“交易”は不可欠です。
ここに、家政に取引という事象が生じます。
つまり、取引があることを前提として、家政の財産維持を図っていく必要が生じたわけです。
古代ギリシアにおける家政論とは、そういう現象のもとに生まれたのでした。こうみると、古代ギリシアの家政論は、たしかに経営の問題に触れています。ただ、大量生産大量消費の時代は、まだまだはるか先のことです。
現代の経営学につながる事象が生じ始めたのは、ヨーロッパ中世のこと。
この時代、徐々に交易・流通の地理的な範囲が拡がり、そこで取り扱われる品目も増え、量的な規模も増大しました。
その際、個人が持つ資産だけでは、こういった交易や流通の拡張に対応できない状況が出てきたのです。
そのなかで生まれたのが、コンメンダ(commenda)やコンパーニア (compagnia)といった共同出資や協同のための組織的な形態² でした。こういった共同出資による事業の出現は、その運営や帰結についての説明や報告、そのための記録を必要とします。ここに簿記そして会計が生まれます。
もちろん、事業の記録や計算それ自体はもっと古くから³ ありました。
ただ、現代的な簿記・会計の源流とされる形態が生まれたのは、1494年にルカ・パチョーリ(Fra Luca Bartolomeo de Pacioli; 1445-1517)が著した『スムマ』という数学書であるというのが定説です。実践としてはそれ以前からありましたが、ここで複式簿記が学術的に説明されました。
ちなみに、このパチョーリが生きた時代は、まさに大航海時代でした。
交易・流通の規模が増大したことで、商業技術が発展したわけです。ただ、生産技術の裏づけとなる自然科学の展開は、まだまだでした。
一方、この頃、日本ではまったく異なる領域から、経営的な視点をもつ言説が登場します。
世阿弥の能楽論です。
今でこそ古典芸能ですが、当時は田楽能や猿楽能(世阿弥は猿楽でした)をはじめとして、多種多様な芸能が存在して、競合していました。
そのような状況のもとで、自分たちの一座がいかにして生き残るのかを考え、実践しなければならなかったのです。
ただ、当時の芸能にかかわる人たちは、文字を書けない人も少なくありません。
そのなかで、世阿弥は将軍・足利義満や当時随一の文化人であった関白・二条良基などとのつながりから、さまざまな知識を得ることができていました。そういった知識を援用しつつ、自らの実践経験から、人材育成や作品形成(商品企画)、実演を通じた顧客への価値提案などを言語化していったのです。
しかし、あくまでも能楽論・劇団経営論であり、その後に世阿弥の考え方が展開されることはありませんでした。
このように、15世紀ごろには、いわゆる“経営”にかかわるような実践的知識やそれをめぐる言説が生まれはじめていました。ただ、それらが“経営”というような言葉によって体系化されるまでには、まだ相当の時間を必要としました。
2.危険を冒して企てる人が経済循環を動かす:アントレプレナーへの注目
17世紀のヨーロッパ経済において中心的な存在であったのがオランダで、とりわけアムステルダムは中継貿易の拠点となっていました。これが、17世紀末になると、その中心はロンドンへと移っていきます。
その一つのポイントとして、オランダが交易・流通に主眼を置く経済構造であったのに対して、イギリスは毛織物に代表されるような工業生産を有していました。
つまり、商業活動がこれまでの交易や流通から、一定量以上の生産を背景としたものに変容しつつあったわけです。
このような状況のもとで、金融機能のなかでも“投資”に目が向けられるようになります。
この時期に金融家として活躍した一人に、リシャール・カンティヨン(Richard Cantillon; リチャード・カンティロンと英語読みする場合もあります)がいます。
彼についての詳しいことはわかっていませんが、自らの活動への弁明として書かれたのが『商業試論』であるとされています(中川辰洋『カンティヨン経済理論研究』日本経済評論社、2016年、第1章)
謎に満ちた⁴ 『商業試論』のなかで、経済循環を動かす存在として位置づけられたのがアントレプレナー=企業者です。
カンティヨンは、当時の大規模借地農業者を主としてアントレプレナーとして描いています。ただ、大事なことは、カンティヨンが特定の人をアントレプレナーとさしたのではなくて、諸商品の生産、交換や流通を「自ら危険を冒して」行う経済主体はすべてアントレプレナーに含めていたという点です。
つまり、カンティヨンの視点からみれば、冒険的な姿勢でもって事業を企て、営もうとすることをアントレプレナーシップと呼ぶことができます。
カンティヨンが生きていた時代には、経営学はもちろん、経済学もまだ登場はしていませんでした(経営や経済に関する言説はあります)。アダム・スミスもカンティヨンのあとの時代の人物です。
ただ、17世紀から18世紀にかけての時期、「すでにある何かを交易する」という段階から、「収益獲得を目的として生産し、それを交換する」という段階へと移行しつつありました。まさに、資本主義が姿を現してきた時代⁵ です。
そのようななかでは、他者を出し抜くことも含めて、危険を冒して成果を得ようとする姿勢が不可欠となります。
アントレプレナーシップという考え方がこの時代に登場したのは、非常に自然な流れであったわけです。
3.市民革命と産業革命。キーワードとしての「合理化」。
経営“学”の歴史をたどるとき、やはり重要な転機になるのは生産技術の急激な進展、より具体的には大量生産・大量消費というスタイルの誕生です。
これなしに経営が学問的な議論になることはなかったといってよいでしょう。
この点をより色濃く反映したアントレプレナー/アントレプレナーシップの考え方を提唱したのが、ジャン=バティスト・セイ(Jean-Baptiste Say)でした。
彼はアントレプレナーの概念を説明するにあたって、製品やサービスなど、現代でいうところの“価値提案”を創出し、顧客に提供することで収益を獲得するという側面を強調しました。
つまり、カンティヨンのときには商業的な側面が強くあらわれていたのに対して、セイの議論では生産的=工業的な側面の比重が高まっているのです。ここには、産業革命という工業化への動きが反映されています。
セイの議論でしばしば登場するのが、勤労(industry)という概念です。
経済史家のド・フリース(Jan de Vries)が『勤勉革命』という本で明らかにしているように、17世紀ごろから人々の消費行動は活発化していました。それが、18世紀後半から19世紀にかけての産業革命によって、相乗的に促されたとみることができます。
その点で、セイは現代社会につながる視点を持ちえたといえるかもしれません。
セイのアントレプレナー/アントレプレナーシップ概念は、カンティヨンのそれよりも後代への影響は大きいものでした。
例えば、ドラッカー(Peter Ferdinand Drucker)も『イノベーションと企業家精神(Innovation and Entrepreneurship)』 という著書のなかで、セイのアントレプレナーシップ概念を紹介しています。
ただ、セイが生きていた時期は、まだ工業化といっても軽工業が中心でした。そのためか、企業という経済活動主体に目を向けるという動きは少なかったのが実情です(言及がなかったわけではありません)。
セイが活躍していた同じころのドイツでは、工業だけでなく、農業に関する合理的な経営を追求しようとする動きがありました。これらの動きは、経済学だけでなく、当時存在していた “官房学” からの影響を強く受けています。
官房学とは、18世紀から19世紀初頭にかけてまだ残っていた封建制にもとづく王侯領主の財産の管理や運営についての学問です。こういった財産管理のための知識や技術、とりわけ会計/計算のための技術や制度が、民間的実践にも援用されるようになっていった⁶ のです。
工業においても原価計算をはじめとする管理技術が、19世紀初頭前後から実践的に整えられていきました⁷ 。
この時代のプレ経営学ともいうべき文献の多くは、工業生産とそれにかかわる会計/計算が中心でした。
ここには、工場で働く労働者/従業員への賃金計算も含まれます。
工業生産の規模が大きくなるにつれて、労働者/従業員にどう接するかという課題も浮上します。
産業革命で先んじていたイギリスでは、紡績工場の支配人で、社会改革運動にも熱心だったロバート・オーウェン(Robert Owen)が、従業員の労働環境などの待遇改善を積極的に推し進め、決して十分ではなかったものの労働に関する立法も実現させました。
とはいえ、これらの動きが十分に浸透するには、まだまだ長い道のりと時間を要することになります。
さて、少しまとめておきましょう。
18世紀後半から19世紀半ばにかけて、農業にしても工業にしても、合理性ということを重視して、いかにして実り豊かな成果を得るのかという点に最も関心が集まっていました。
こういった「生産の合理化」を可能にしたのが、技術の急激な進展です。
例えば、「コンピューターの父」とも称されるチャールズ・バベッジ(Charles Babbage)が『機械と製造の経済(On the Economy of Machinery and Manufactures)』という書物を著したのは1832年のことでした。これらが、第二次産業革命として開花するのは、19世紀後半です。
そして、企業経営が学問的なテーマとなりはじめるのも、この時期のことなのです。
4.経営“学”の生誕前夜:19世紀後半
19世紀も半ばを過ぎると、生産技術の急激な進展や市場の拡大といった傾向が、いよいよ強まります。
生産技術の進展は、設備投資の大規模化を引き起こし、事業規模や企業規模の巨大化をもたらしました。
現代につながる意味での“経営学”は、この背景から生まれてきました。
もちろん、ここまで述べてきた“蓄積”は重要な意義を持っていますが、経営学の最初のスプリングボードとなったのは、19世紀後半の第二次産業革命でした。
第二次産業革命では、とりわけ重化学工業での技術革新などが進みました。
これは、例えばアメリカでの大規模な鉄道敷設と開拓などのように、大量消費と連動しています。大量生産・大量消費というスタイルが広まるなかで、企業もまた大規模化します。
このような動向から、それまでの会計/計算や、生産などに関する技術知識だけでは収まらない“経営”についての考え方や知見が求められました。
第二次産業革命によってもたらされた企業や事業の規模の拡大は、そのための知識の体系的な提供“理論”を必要としたのです。
そのようななかで、ドイツではリントヴルム(Karl Friedrich Arnold Lindwurm)やエミングハウス(Karl Bernhard Arwed Emminghaus)、ハウスホーファー(Max Haushofer Jr.)といった人たちによって、フランスではクールセル=スヌイユ(Jean Gustave Courcelle-Seneuil)などによって、現代の経営学につながるような視点を持った著作が生み出されました。彼らは、ビジネスの実践に携わるとともに、商業教育や工業教育にもかかわっていました。
興味深いのは、1850年代から60年代にかけて書かれたエミングハウスやクールセル=スヌイユの著作では所有と経営が分離していないオーナー企業が前提となっているのに対して、1870年代のハウスホーファーの著作では労資協調的な観点が色濃くあらわれている点です。
これは、企業の規模が大きくなることで、経営を担う際にポイントになるのが、オーナーであるかどうかから、専門的な知識を持っているかどうかへと移りつつあることを反映しています。
この流れは、アントレプレナー=企業者という存在が経営をめぐる言説から、徐々に後退していくことにもつながっています。すぐにではありませんが、徐々にオーナー経営者というニュアンスも併せ持つアントレプレナーという言葉が避けられ、経営者という言葉に置き換えられていくのです。
この点は、これからの展開をたどる際に、頭の片隅に置いておくとよいでしょう。
5.企業者による事業から、組織的事業へ:冒険と合理性
ここまで、紀元前から19世紀に至る2000年近い歴史における“経営”について見てきました。詳しく辿れば、もっと触れるべき言説はありますが、それについてはまた機会があれば。
このようにみてくると、経営という言葉がかなり古くからあったこと、いわゆる“経営”にかかわる事象を捉える、あるいは導くための言説も、近代以前からすでに存在していたことがわかります。
そのなかで、とりわけ「うまくいくかどうかわからない」という危険を冒して、何らかの事業を営もうとする姿勢=アントレプレナーシップの発見が、一つの転機になった点は、注目しておきたいところです。
ただ、事業を創造するということが、ある程度まで一般化すると、今度は事業をいかに合理的に運営するかに重点は移ります。そして、その知見を体系化しようとするとき、経営“学”が胎動しはじめるのです。
「4. 経営“学”の生誕前夜:19世紀後半」でとりあげた著作は、博士号を有している人たちによって書かれており、当時の水準でいえば学問的著作といってもそれほどおかしなことではありません。
その意味で、まさに夜明けの直前、水平線はすでに明るくなっていたともいえます。
実のところ、何をもって経営学が誕生したといえるのか、その明確な答えはありませんが、この連載ではいったん通説である19世紀末に、その時期を設定しています。
それは、19世紀になり、現代の経営学にも強力な影響を及ぼしている著作が登場し、経営学の源流として位置づけられることがほとんどだからです。
19世紀末以降の経営学については、第2回以降で詳しくみていきましょう。
- ¹ 講義では、企業行動論という科目で「企業をめぐって、価値の創造や交換が行われていくメカニズムとはどのようなものか」、「それをどのようにして根拠づけたり(=なぜ、それをするのか)、方向づけたり(=どういう状態をめざして、どのように進めていくのか)するのか」そもそも「企業とはどういった存在なのか」といったテーマについて考えています。そのなかで、アントレプレナーシップや姿勢としてのデザインといった点についても触れています。
- ² コンメンダとは、委託者が事業を請け負う受託者に対して資金を出し、収益のうち四分の三を出資者が、四分の一を受託者が受け取るというもので、委託者は有限責任を、受託者は無限責任を負います。これは、現代の匿名組合や合資会社といった形態として受け継がれています。
もう一方のコンパーニアは、ある家族が機能資本家、つまり事業運営を担う出資者として複数世代にわたって同一の名称を用いて活動するために生まれた家族的な事業団体が、家族以外の者を含むかたちで発展したものです。 - ³ 古代メソポタミア時代に、すでに会計実践があったようです。この点については、工藤栄一郎[2021]「古代メソポタミア会計研究の意義と可能性」『経済論叢』(京都大学)第195巻第2号参照
- ⁴ リシャール・カンティヨンはスペイン系アイルランド人の商人の息子として1680年代に生まれたとされています。その後、フランスに渡ったあと、アイルランド系の銀行に勤め、1717年に独立したようです。そして、イギリスの経済思想家で実業家、財政家であったジョン・ローと知り合います。
そのローが企てたミシシッピ計画 ——これは、オランダでのチューリップ・バブルやイギリスでの南海泡沫事件と並ぶ、世界三大バブルとも呼ばれます—— で、その実現性に懐疑の目を向けながらも、そのバブルで莫大な利益を得ます。ただ、そのバブルの破綻によって自らが経営していた銀行は破綻します。
銀行顧客からの追及や得た利益への税務調査への対策などから、カンティヨンは数年にわたってパリで“ワイン商”として暮らしていたとも言われます。
その頃に、自らの活動への弁明として書かれたのが『商業試論』であるとされています(中川辰洋『カンティヨン経済理論研究』日本経済評論社、2016年、第1章)。
しかも、この本はカンティヨンが使用人に殺害された(とされる。というのもその遺体は焼かれて灰の状態になっていたために、カンティヨンその人かどうか判別しえなかったとも言います)1734年から下ること20年以上の1755年に、しかもロンドンで刊行されたかのように“偽装”されて、フランスで刊行されたようです。 - ⁵ このあたり、フェルナン・ブローデル『物質文明・経済・資本主義』などを読むと、その時代の状況が活写されています。かなり大部の本ですが…
- ⁶ このあたりの専門的な内容について学ばれたい方は、浅野幸雄『近代ドイツ農業会計の成立』勁草書房、1991年をご参照ください
- ⁷ このあたりの詳細は、大阪公立大学名誉教授の岡本人志先生のいくつかの著作で丹念に文献の検討がなされています(岡本人志『経営経済学の源流』森山書店、1985年; 岡本人志『19世紀のドイツにおける工場の経営に関する文献史の研究』文眞堂、2018年