生産管理の源流。テイラーの科学的管理が起こした変化 ──【連載】転換しつづける経営観 第2回

生産管理の源流。テイラーの科学的管理が起こした変化 ──【連載】転換しつづける経営観 第2回

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18分

様々な時代の経営をめぐる言説(理論や概念など)において、経営がどのように捉えられてきたのか──「経営観」の変遷を近畿大学経営学部教授・山縣正幸さんとたどる本シリーズ。第2回は現在の ”合理的” な経営の考え方に通じる源流を追います。

第1回はこちら
経営学の前に、経営はあったー【連載】転換しつづける経営観 第1回 | CULTIBASE

0. はじめに

「転換しつづける経営観」第2回においでくださり、ありがとうございます。前回は、ものすごく長いスパンで“経営”という発想の歴史について辿ってきました。いわば、通説において「経営学以前」と称される時代です。

そこでは、「うまくいくかどうかわからないけれども、企ててみる」というアントレプレナーシップが一つのカギになること、同時にその規模が大きくなってくると“合理的”な経営が必要になってくること、この2つの点を押さえておいていただけると、今回の内容を理解しやすくなるかと思います。

このうち、経営学の発展を促したのは、後者、つまり合理的な経営を探求しようとする姿勢でした。この姿勢も、すでに19世紀にははっきりあらわれていました。これについては、第1回で見てきたとおりです。ただ、現代の経営学に直結する考え方が登場したのは、19世紀末であるとみるのが一般的です。具体的には、アメリカでのテイラー(Taylor, F. W.)の科学的管理の提唱や、ドイツにおける商科大学の設立といった出来事が、その代表です。

今回と次回は、19世紀末から1920年ごろ、より厳密には第一次世界大戦が終わる1919年を一つの節目とする20年ほどに焦点を当てて、合理的な経営の必要性が論じられた科学的管理が誕生する経営学の展開をたどってみましょう。

そのうち、まず今回は、職務の標準化を通じて、合理的な生産や労務などの管理を実現しようとしたテイラーの考え方について、見ていくことにします。

1.【背景】アメリカにおける企業経営の規模拡大と、鉄道業

19世紀のアメリカ合衆国においては、西部への開拓が急激に進みました。この開拓において重要なインフラとなったのが鉄道です。鉄道の普及は、工業化が進んだ北部で顕著でした(これは、南北戦争における北部の勝利の原因の一つにもなります)。この頃、鉄道はそれ自体が大量の鉄鋼を必要としますし、鉄道以外の領域でも鉄鋼の需要が急増していました。

鉄鋼を中心とした工業化の急激な成長は、工場の大規模化を促します。技術は着実に進展していきましたが、一方で工場をどう運営するか、つまりマネジメントの考え方や方法については、立ち遅れていました。そのようななかで、主導的な立場を得ていったのが工場での技師(エンジニア)でした。

2.【きっかけ】エコノミストとしてのエンジニア:Towne(1886)の提唱

技師(エンジニア)というと、現代のわれわれからすると技術者あるいは技術の指導に携わる人というイメージが強いかもしれません。しかし、当時のアメリカにおいては、最先端の技術を導入していくのみならず、それを工場での労働に普及させていくという仕事も担っていました。ここから、技師が“エコノミスト”あるいは“マネジメント”として位置づけられることになるのです。

この点をはっきりと宣言したのが、タウン(Towne, H. R.)という人でした。タウンは、アメリカ機械技師協会において、本来の仕事ではないけれども、経済的な部門を立ち上げて、工場管理についての議論をしていく必要があるということを、1886年に提唱します。それが「エコノミストとしてのエンジニア(The Engineers as an Economist)」という論文でした。

この論文で、タウンは機械工学のような技術的な問題はもちろん重要であるとしつつ、それと同等に重要なのが工場管理(shop management)に関する技(art)だと指摘します。そこでは、いかにして工場での指示・伝達の方法などの組織構築をはじめとするさまざまなマネジメントの問題、そしてそこで生じる支出や成果の測定と記録にかかわる会計の問題を体系化していくことの重要性が強調されているのです。

タウンの提唱は、先進的なエンジニアたちに強い影響を与えます。その一人が、テイラーでした。

3.経営学の父:テイラー

テイラーとは、どのような人物だったのでしょうか。みなさんにも手に取っていただきやすい経営学史叢書第I巻『テイラー』(中川誠士編著、文眞堂、2012年)を参考に簡単に触れながら、当時の状況を見ていきましょう。

テイラーは1856年3月にアメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィア近郊で、裕福な家庭の次男として生まれます。その裕福さは、当時においてもきわだっていて、祖父は銀行の創設に参加するかたわら、大地主ともなった人物でした。テイラーは、ハーバード大学に進学する準備のために寄宿制の私立高校に入りますが、そこでの猛烈な勉学の結果、頭痛や視力の低下に悩まされ、結局そこを退学して、エンジニアの道へと方向転換します。

エンジニアの道といっても、当時は技術系の大学もきわめて少なく、機械工学に関しては7つの学校が学士課程を提供しているだけで、テイラーはフィラデルフィアの小さなポンプ製造工場で無給の徒弟として修業を開始します。現代からすると意外かもしれませんが、当時はそういったルートが普通だったのです。1874年のことでした。

4年後、徒弟修業を終えたテイラーはミッドベール・スティール社に1878年に未熟練工として入社します。ミッドベール・スティール社は、工作機械製造の第一人者であったセラーズ(Sellers, W.)が経営しており、当時最先端の企業の一つでした。ここに縁故で入社したテイラーは順調に出世し、24歳で職長、1887年には主任技師にまで昇進します。このミッドベール・スティール社時代に得た知見が、科学的管理の基軸を構成することになるのです。

ミッドベール・スティール社に入って3年後の1881年には、テイラーは科学的管理の重要な要素となる時間研究(time study)を開始しています。これは機械工学などの技術的な知見というよりも、経営者あるいは管理者としての関心にもとづく知見の獲得であるといえます。

このミッドベール・スティール社時代に、タウンの論文「エコノミストとしてのエンジニア」を報告として聴いたのです。技師たちのなかにはタウンの報告に対して反発する者もいましたが、テイラーはその内容に共鳴し、自らもマネジメントの問題へと足を踏み入れていくことになります。

その後、1890年にミッドベール・スティール社を退社し、マニュファクチャリング・インベストメント社で3年、その後コンサルティング活動を5年続け、1898年からベスレヘム・スティール社で仕事をしはじめます。これは、テイラーが1895年に執筆した論文「一つの出来高給制」にベスレヘム・スティール社の筆頭株主で取締役のウォートン(Wharton, J.)が注目し、同社への導入を希望したことがきっかけでした。

このベスレヘム・スティール社在任時に、テイラーは科学的管理の考え方や方法を本格的に打ち出していくことになります。

では、科学的管理とはどのような内容でしょうか。

4.テイラーの3つの科学的管理:課業管理 / 差率出来高賃金制 / スタッフ型組織

テーラーが提唱した科学的管理は、大きく3つからなります。(1)課業管理、(2)差率出来高賃金制、(3)スタッフ型組織です。ここで重要なのは、テイラーが課業(task)という概念を重視したことです。ここに、テイラーが経営学の父と呼ばれるようになった理由があります。一つひとつ、簡単にではありますが、その内容を見ていきましょう。

(1)課業管理(task management)は、労働者が達成すべき仕事の内容を明確な基準にもとづいて“課業”として設定し、それをベースに工場全体のマネジメントを行おうというものです。この課業を設定する際に、テイラーは優れた労働者の作業を観察したうえで、作業をさらに詳細に動作レベルまで分割し、その動作にどれだけの時間がかかるのか、また無駄な動きをどれだけ排除できるのか、さらにある動作から次の動作に移るのにどれくらいの時間を要するのかなどを計りました。そして、それらの計測結果から、最も能率的な動作の一連と必要時間を算出し、達成すべき仕事内容としての“課業”を設定したわけです。

それまでは、親方=職長などが経験にもとづいて「だいたい」のところで仕事内容を設定することが少なくありませんでした。テイラーは、このファジーさが工場での労使間の紛争を引き起こしていると考えたのです。加えて、この親方=職長の側に仕事の進め方などの裁量があるということも、テイラーは問題視していました。

この課業管理を導入することで、管理者の側が職務内容をコントロールできるようになることをテイラーは目指していました。科学的管理のいちばん重要なポイントが課業管理にあったことは言うまでもありません。

この課業管理を踏まえて、テイラーは課業をクリアできた労働者には高い報酬を、できなかった労働者には低い報酬を支払うという、いわば現代の成果主義賃金制度の源流の一つともいうべき制度を導入します。それが(2)差率出来高賃金制です。

もちろん、それまでにも優れた結果を出した労働者に対して割増賃金を支払うということは、広くおこなわれていました。ただ、テイラーはその割増賃金を支払う際の基準として、課業が達成できたかどうかを置いたわけです。

科学的管理が提唱された時代、それはとりわけ工業での科学技術が急激に進展した時代でもありました。科学技術の急激な進展は、専門家=スタッフの重要性を高めることになります。一方、企業における組織構造、つまり意思決定やその伝達の機構は、ライン型組織(軍隊型組織とも呼ばれます)が主流でした。

ライン型組織

ライン型組織においては、部下は一人の上司からだけ指示を受けます。これは指示内容にぶれが生じにくいという点で、「わかりやすい」という特徴を持っています。ところが、科学技術の進展によって、上司が知っておかなければならないことが激増します。

そこで、テイラーはそれぞれの領域の専門家である機能別職長=スタッフが、その内容ごとに労働者に指示を伝えるという(3)スタッフ型組織(機能的組織 functional organization)を提唱します。

スタッフ型組織

これは、理屈のうえではもっともな組織構造です。

しかし、現実に複数の上司から指示を受けた部下が混乱することは想像に難くありません。しかも、機能別職長どうしの指示に対立や矛盾があった場合、部下は動けなくなってしまいます。その点で、これはそのまま現実に導入できるものではありませんでした。とはいえ、専門的な内容に関する知識を持つスタッフが重要であるのは確かです。後々になってライン&スタッフ型組織という組織構造が用いられるようになっていきますが、これは、現代でもよくみられる組織構造です。

ライン&スタッフ型組織

人事や経理、法務などのコーポレート部門(ここをさしてスタッフ部門と呼ぶことも多いでしょう)、あるいはデザイン組織など、特定の専門的な知識を持つ組織が社内横断的な役割を担っているスタッフ型組織があります。

ここまで、ごく簡単にですが、テイラーが提唱した科学的管理を構成する3つの柱について説明してきました。そのなかで、最も重視されたのが課業という考え方であることは、あらためて指摘しておきたいと思います。ドラッカー(Drucker, P. F.)は経営学の歴史におけるテイラーの重要性を強調する一人ですが、仕事を分析したこと、そしてそこから明らかにされた基本的な作業を検討したうえで、論理的でバランスの取れた合理的な順序に配列すること、この2つの点にテイラーの科学的管理の意義を認めています

このドラッカーの評価は、テイラーの科学的管理の提唱が、経営学、そして経営実践にとって、きわめて大きな画期であったことを的確に示しています。さらに、当時のアメリカ企業において強力な権限を持っていた職長という役割に集約されてしまっていた計画と遂行を切り分けたことも、重要な貢献でした。

5. 科学的管理への反発

ただ、テイラーの科学的管理は、当時からすんなり肯定的に評価されていたわけではありません。

テイラーの科学的管理は、親方=職長からその権限を剝奪するものでした。当然、職長たちからは大きな反発を受けることになります。さらに、課業の設定において優秀な労働者を基準にしたため、多くの労働者は課業を達成できない事態が生じます。また、仕事内容が厳しくなることへの抵抗も生じます。

実際、ベスレヘム・スティール社では、それほど大きな効果を挙げられませんでした。

晩年のテイラーは、ベスレヘム・スティール社を退職して、自らの科学的管理の考え方を普及させることに力を注ぎます。テイラーは、科学的管理を導入することによって、仕事の基準が明確で合理的になることで、企業としての収益も増大するし、労働者の賃金も上昇するので、労資協調が生まれると主張しました。そして、その状態を目指さなければならないのだと主張したのでした。これをテイラーは“精神革命”と呼びました。

そのかいあって、科学的管理の考え方は広まります。同時に、労働組合からの反発も激化しました。1912年には、アメリカ議会特別委員会の公聴会の証言台に立つことを求められ、労働強化ではないのかという、厳しい批判を浴びました。テイラーはそれに屈せず、自らの主張を貫きます。しかし、政府施設内での科学的管理の適用を禁止する議決が議会でなされるなど、テイラーの意思はなかなか認められませんでした。そのような中、1915年3月にテイラーはその生涯を閉じたのでした。

6. 科学的管理の普及と展開

その後も、テイラーの考え方は、肯定的な評価と否定的な評価の両方がつねに存在する状況で取り上げられ続けました。

アメリカ議会において厳しく批判された労働強化という側面がテイラーの科学的管理に含まれていたのは確かです。また、計画と遂行の分離が労働者の意思や人格、自律性を無視しているという批判も生まれました。

科学的管理そのものの問題として、テイラーが提唱した課業管理の方法に十分な根拠がないという批判も出てきます。実際、課業管理において設定された「必要な余裕時間」をどう測定するのかというのは、明確な根拠を出すことが難しいものでもありました。その意味で、テイラーは自らの考え方に“科学的”と名づけていますが、現代的な視点からすれば、決して“科学的”とはいえない面があります。

このように、テイラーの科学的管理は、現代においてそのまま適用できるようなものではありません。

にもかかわらず、テイラーの科学的管理は “経営学の父” あるいは出発点と呼ばれるにふさわしい考え方でもあるのも事実です。

なぜなら、先にドラッカーのテイラー評価として参照したように、テイラーは仕事の分析の先駆者だからです。テイラーと同じ時期、あるいはテイラーのあとに続いた人物に、動作研究を推し進めたギルブレス夫妻(Gilbreth, F. B. & Gilbreth, L. E. M.)や、今も「ガントチャート」で知られるガント(Gantt, H. L.)などが、テイラーの提唱を引き継ぎつつも、独自の展開をしていきました。

この流れは、現代における生産管理の理論や実践の源流として、きわめて重要な意味を持っているのです。

そのなかでも重要なポイントは、課業という概念にみられる職務の標準化です。

テイラーが活動していた当時のアメリカは、多くの国や地域から移民が流入していた時期でした。移民といっても教育を受けてきた状況や経済状態などには大きな差がありました。そのなかで、工場労働者となったのは、教育に関しても、経済に関してもいい状態にあるとはいえない人々でした。そういった人々をいかにして「働かせる」のか、それがテイラーの基本的な観点だったのです。その点で、テイラーが理想として想い描いたのは、技師をはじめとする経営側の人間の指示にもとづいて、労働者が最高の技術的な生産性を発揮するという状態でした。

こういった認識は、現代においてもないわけではありません。しかし、人間一人ひとりに自律性や自由意思が存在するという観点に立てば、時代錯誤であることは否めません。

にもかかわらず、職務をどう設計するのかという問いは、どのような製品やサービス、コンテンツなどの組み合わせとしての価値提案を効率的かつ効果的に生み出し、届けるのかという課題を考えるときに、必ず浮上してくるものでもあります。

テイラーの議論、そしてそこから生まれた実践は、工場という限定された空間をなかなか超えられなかったという限界もあります。しかし、テイラーが考えた賃金制度や組織設計などは、それに対する批判も含めて、“働かせ方”としての労務管理、さらに職務設計などの議論へとつながっていきます

7. 工場のマネジメントから、企業のマネジメントへ

テイラーの科学的管理は、あくまでも工場のマネジメントでした。
これはこれとして経営学の歴史において、重要な意義を持っています。

ただ、企業という存在それ自体が大規模化していくと、工場のマネジメントだけでは説明できない領域が生じてきます。この限界は、原価計算の専門家であったチャーチ(Church, A. H.)、そしてフランスの技師出身の経営者・ファヨール(Fayol, H.)によって打ち出されることになります。

そこで、次回は企業全体をどうやって管理/マネジメントするのかという視点に立つ議論をとり上げることにしましょう。

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