様々な時代の経営をめぐる言説(理論や概念など)において、経営がどのように捉えられてきたのか──「経営観」の変遷を近畿大学経営学部教授・山縣正幸さんとたどる本シリーズ。第3回は部分から企業全体へ広がった経営管理論を追います。
0. 工場から企業全体へ
前回は、テイラーが提唱した科学的管理という考え方について紹介しました。テイラーが重視していたのは、工場での生産を最大限に合理的におこない、生産量を増大させることでした。そのための鍵が課業という概念にもとづく職務の標準化だったのです。
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生産管理の源流。テイラーの科学的管理が起こした変化 ──【連載】転換しつづける経営観 第2回
テイラーの科学的管理が登場したことで、製品やサービス、さらにはコンテンツも含めて価値提案をどのように合理的に生み出し、さらには届けるのかという価値創造過程を捉えるための基本的な視点を、私たちは獲得することができるようになりました。テイラーの考え方がそのまま現代に通用するわけではありませんが、科学的管理という考え方によって、この問題を捉える枠組みが示されたわけです。
ただ、大きな問題が残されていました。
それは、テイラーの科学的管理はあくまでも工場を舞台にしたものだったのです。
工場の規模拡大は、企業それ自体の規模拡大と直結します。企業全体をいかにして動かせばいいのか、この点もまた重要な課題として浮上します。これについて考え始めたのが、アメリカの原価計算の専門家であったチャーチ(Church, A. H.)とフランスの経営者ファヨール(Fayol, H.)でした。
今回は、この2人の考え方を通じて、企業全体をいかに動かしていけばいいのか、そのアプローチを尋ねてみたいと思います。
1.合理的に割り切れない要因への着目:チャーチの機能的管理論
1-1. 【背景】経営課題としての原価計算
前回までも触れてきましたが、19世紀後半(1870年代)以降、企業の合併や買収が急激に進み、企業の大規模化が進展しました。1879年にロックフェラー(Rockefeller, J. D. & Rockefeller, W.)によってスタンダード・オイル・トラストが結成されたほか、2025年に日本製鉄が買収合意に至ったUSスチールも、1901年にフェデラルスチールとカーネギースチールが合併して設立されました。
当時、社会の工業化によって生じた大量需要に対応することが、企業に求められていました。そこで重視されたのは専門化であり、課題として浮上してきたのは、その進展に即して生じた標準化や互換性をいかにして実現するのか、という点でした。企業の大規模化においては、多様な事業や職務を相互に調整し、企業をトータルに成長や発展へと導いていくという役割の重要性も、前面に浮かび上がってきました。
ではこういった役割を誰が担うのか。それは、経営陣=トップ・マネジメントです。経営陣の役割/機能について、ここで体系的な知識や概念枠組が求められるようになったのです。
1-2. 【内容】チャーチの機能的管理論
チャーチは、原価計算の専門家という立場から、企業全体を計画的に動かすには、テイラーの工場管理とは異なる、企業全体を対象としたマネジメントが必要だと考えました。そこで彼が1914年に著した本が『マネジメントの科学と実践』でした。
このマネジメントを考えるにあたって、チャーチは企業活動が「決定的要素 Determinative element」と「管理的要素 Administrative element」の2つからなると整理しています。
決定的要素とは、会社を方向づけていく経営政策(business policy)を策定することを指します。チャーチは、決定的要素の重要性を認識していましたが、ここには合理的に説明できない側面も少なからずあるため、考察の対象とはしませんでした。チャーチが取りあげたのは、後者の管理的要素です。
チャーチは管理的要素を、経営政策を実施していくために必要な「定常的(ルーティン的)にやっていく活動」、すなわち機能(ファンクション)として捉えました。
チャーチが示した主な管理機能は次の5つです。
- 企画 (Design):計画を立てる。
- 設備準備(調達に近い):必要な資源・設備を調達し準備する。
- 秩序づけ(コントロール):誰が何をするのか、役割分担を秩序づける。
- 比較(統制):当初の予定(原価計算など)と実現(実績)を比較する。
- 実行(作業):実際の作業を行う。
これらは、現代的な観点からみても、ある程度は納得できる機能の構成となっています。チャーチはこの5つを有機的機能(organic function)と呼び、バラバラではなく、つながりあった要素として位置づけているのです。この5つの有機的機能は、チャーチが従来からの経験的知識を諸要素に分析したうえで、それらの諸要素を結びつける法則や規則を見いだしていった結果として打ち出されました。
チャーチは、この機能こそが管理(マネジメント)であり、後々のマネジメントという概念が、組織を計画的に動かすファンクションとして認識されていく土台を築きました。
1-3. 【展開】シェルドンの経営政策論
チャーチが試みたマネジメントにおける科学の構築において残されていたのが、決定的要素でした。チャーチが1914年に著書を公にした当時、決定的要素の重要性は認識されていたものの、それを学問として研究するには至っていませんでした。
ただ、1911~12年度にケーススタディを中心としたビジネス・ポリシーの講座がハーバード大学に設置されるなど、企業全体を方向づけるための意思決定について考えることの価値は認識されるようになっていました。これは、トップマネジメントの意思決定、すなわちポリシーメイキングを議論の対象とし、経験則を蓄積していく取り組みでした。しかしビジネス・ポリシーを真正面から採り上げる研究が打ち出されるには、さらに10年あまりの時間を要しました。
1925年、イギリスのラウントリー社(Rowntree’s; ロントリーとも呼びます。キットカットで有名なチョコレート・メーカー)の役員を務めていたシェルドン(Sheldon, O.)が『ハーバード・ビジネス・レビュー』に「経営政策と経営政策の決定」という論文を執筆します。
ちなみに、ラウントリー社はまだ新しかった産業心理学の知見を導入し、従業員の待遇改善や福利厚生、自主性の促進などを推し進めるなど、当時としてはかなり先進的な経営を実践していました。
その役員だったシェルドンは、チャーチが考察し残した決定的要素を正面から考察しようとしたのです。チャーチ自身が指摘していたように、決定的要素は「合理的で定常的な管理機能」で説明しきれない部分です。それは、合理的に説明しにくい、企業の生命線となる方針、いわゆるポリシーの部分です。シェルドンは、経営に深く関わった経験から、この「ポリシー」に着目しました。
ここで注目したいのは、シェルドンがポリシーを考える際に、“企業の社会的責任”とでもいうべき内容にも目を向けていた点です。シェルドンは、「産業は、その規模はどうであれ、快適な社会生活にとって必要な商品とサービスを提供するために存在する」(シェルドン、田代義範訳『経営管理の哲学』未来社、1974年; 原著は1923年)と指摘し、社会的な責任と経済的な効率を両立させることが経営陣の役割であると考えていました。この点は、現代の企業の存在意義を考えるうえでも、重要な指摘と言えます。この背景には、シェルドンが勤めていたラウントリー社での経験が反映されています。
シェルドンは、トップの意思決定が一体何によって左右されるのか、誰がそれを担うのか、何がポリシーの対象となるのか(現場の仕事ではない高次の意思決定)、そしてどう示すのかといった点を、経験則に基づきながらも言語化しようと試みました。
これは、今考えれば当たり前の話に聞こえるかもしれませんが、当時はまだ議論が少なかった領域です。「経営者がどういうことをしているか」を体系的に整理しようとした、極めて重要な試みでした。これ以降、経営政策そのものや、経営政策を策定するための条件などを考える研究が徐々に打ち出されていきました。「政策」という言葉が「戦略」に取って代わられるまでには、もう少し時間を要することになります。
2. 専門経営者の役割:ファヨールの管理過程論
2-1. 経営の実践者ファヨール
チャーチとほぼ同年代に、フランスでも全般的なマネジメントの重要性を認識し、そのための理論を打ち出そうとした人がいました。ファヨール(Hayol, J. H.)です。
彼は、フランスのサン・テチエンヌ鉱山学校(フランスにおける鉱山学校は、もともと鉱山技師養成の高等教育機関として設立され、現在では工学系やビジネスに関する高等教育機関として運営されています)を卒業後、製鉄・炭鉱を主たる事業としていたコマンボール社に入ります。ファヨールは、1860年に鉱山技師として入社したのち、技師、さらに管理職として活動しますが、1880年代後半になって、コマンボール社は競争の激化により業績が悪化しはじめます。そのようななか、社内でも方針の対立が生じ、1888年3月、その混乱を収拾するためにファヨールは社長に指名されました。その後、1918年末までその任にあたり、激しい競争のなかでの企業再建に成功。第一次世界大戦も切り抜けるなど、経営者としての手腕を発揮しました。
ちなみに、ファヨールが取締役に就任したのは1900年4月のこと。ファヨールの経営学を捉えるうえで、いわゆる業務執行の責任者としての社長と、株主の委託を受けた業務執行の監督者としての取締役という構造を頭の片隅に置いておくと、理解が深まります。
ファヨールは、自らの実務経験にもとづいて、経営管理に関する理論を構築しようとしました。彼もまた、チャーチと同様に、企業の技術的な作業だけではなく、“企業全体を動かす「管理機能」”の重要性を強調しました。
その背景には、19世紀末から20世紀初頭にかけて企業の大規模化と競争の激化により、経営に関するより高度な専門知識が要求されるようになったという実態があります。そのこと自体はチャーチと大きく変わりません。ただ、ファヨールはシェルドンと同様に、経営陣としてトップ・マネジメントを担っていたというのは、大きな違いとして留意しておきたいところです。ファヨールは、自らの経営実践の経験を素材として、その体系化に挑んだのです。
2-2 . 【内容】管理機能/管理過程/管理原則
ファヨールは、経営という実践を「機能(職能; functions)」「過程(process)」「原則(principles)」の3つの面から整理しました。「機能」では、経営においてどんな活動が必要になるのかが検討され、そのなかでも管理という機能の重要性が指摘されています。「過程」では、経営管理がどのような流れで行われるのかが描き出され、「原則」では、経営管理を行っていくうえで、どのような点が大事になるのかが論じられています。
以下において、この3つについて簡単にみておきましょう。
2-2(1)経営をめぐる6つの機能:管理機能
ファヨールは、まず企業の活動を6つの職能に分類しました。
- 技術:生産、製造
- 商業:購買、販売、交換
- 財務:資金の調達、運用
- 保全:設備の保全、従業員の保護
- 会計:資産目録、原価計算、統計
- 管理:計画、組織、命令、調整、統制
それぞれの活動について、だいたいはイメージしていただけるかと思います。現代的になじみがないと言えば、保全機能くらいでしょうか。これは、会社にとっての人的資産や物的資産をいかにして維持保全するかに関する活動を指します。
これらの6つの機能のなかで、ファヨールは「管理機能」を最も重視しました。管理機能以外の5つももちろん重要ですが、管理機能は企業活動の全般的な計画を作成し、協働的なつながりとしての組織(訳書では「社会体」)を構成、さらに努力を調整し、活動を調和させるという側面を持っています。これに指示命令を加えて、「計画(予測)」「組織化」「命令」「調整」「統制」の5つの活動によって成り立ち、企業全体を動かしていく機能を「管理(administration)」と名づけたのです。
2-2(2)管理が行われる流れ:管理過程
ファヨールは、今述べた管理をめぐる5つの活動を管理の要素と呼んでいます。彼自身は、5つの管理要素が過程になっているとは明確に述べていませんが、これらの5つが過程として並べられていることは容易にうかがわれます。
ファヨールが提示した5つの管理要素の考え方は、彼の著作が英語に訳された1929年以降、実際には1949年の英語新訳版刊行のあと、イギリスをはじめとする英語圏に広く普及します。この後押しとなったのは、英訳刊行にも貢献したアーウィック(Urwick, L. F.)でした。
アーウィックは1929年の段階ですでにファヨールの業績を知っており、その経営管理論を英語圏に紹介していました。これ以降、経営学において管理過程学派(process school)の祖としてファヨールは位置づけられることになります。
マネジメントを過程として捉える見方は、その“肌感覚”的な明瞭さも相俟って、経営学において急速に広まります。そして後述する管理原則論とともに、1950年代ごろまでの経営学の一つの主流としての地位を占めることになります。
このマネジメントを過程としてとらえる見方は現代にもしっかり残っています。それがPlan-Do-Seeから展開して、今も日常用語のように使われているPlan-Do-Check-Action(PDCA)サイクルです。ファヨールの管理機能も、厳密な対応関係ではないものの、ある程度までPDCAと照らし合わせて考えることも可能です。彼が経営者の観点から整理した管理過程(マネジメント・プロセス)は、現代のPDCAサイクルの原型にきわめて近いものです。
【ファヨールの管理機能(5要素)】
- 計画(予測):Plan(計画)
- 組織化:Do(実行)
- 命令・調整:Do(実行)
- 統制:Check(評価)
- 次の修正:Action(改善・次の計画へ)
ところで、実際のところ、ほんとうにマネジメントがこのような過程を経ているのでしょうか。経営陣に密着して、その仕事を克明に捉え、考察したミンツバーグ(Mintzberg, H.)の『マネジャーの仕事』(奥村哲史/須貝栄訳、白桃書房、1993年)においては、こういった管理過程学派の見方がまったく実態に合わないもので、マネジャーの仕事への探究を妨げてきたと厳しく批判しています。
この批判を受けとめるなら、管理を構成する諸要素や、それを過程として捉える見方は直感的なわかりやすさを持っているけれども、実態と照らし合わせながら、そのズレも含めて管理の実態を明らかにしていく必要があると捉えられそうです。
2-2(3)どのようにすれば、うまく管理できるのか:管理原則
ファヨールの基本的な関心は、いかにすればうまく管理できるのか、それによって企業をよりよく導くことができるのかという点にありました。この「いかにして」=Howを(ややもすると性急に)論じざるを得ないのが、経営という実践のために役立つことを求められて生まれた経営学の大きな特徴の一つです。もちろん、それによる弊害もあるのですが。
それはともかく、ファヨールもまた「どうすれば、よりよく企業を導けるのか」という問題意識のもとに、自らの経験に立脚して管理の一般的原則を提示しています。これは、14個の原則から成り立っています。
- 分業がもたらす利益
- 権限と責任の相応
- 規律の重要性
- 命令の一元性
- 指揮の一元性
- 個人的利益の全体的利益への従属
- 従業員の報酬の公正さ
- 権限の集中
- 階層組織の重要性
- 適材適所としての秩序
- 公正の意識の浸透
- 従業員の安定
- 責任者と従業員の創意の促進
- 従業員の団結
※上記の表現は、ファヨールの著作にもとづいて、わかりやすくするために表現を加えています。
たとえばファヨール自身は次のように述べています。
「管理という問題には厳密なものも絶対的なものも少しもない。そこにあるすべてのものは程度の問題である。われわれは同一の原則を同一の条件のもとで二度適用することはほとんど決して必要ではない。多様で変わりやすい状況、同じようにさまざまで変わりやすい人間、そしてその他の多くの可変的な要素を考慮に入れておかなければならない」
ところが、この管理原則論は、やはり魅力的なためか、多くの論者がそれぞれの経験から独自の管理原則を導き出そうとして、その数はどんどん増えていってしまいました。もちろん、それらの管理原則には普遍性を持つものもあります。ファヨールが指摘した14個の原則も、たしかに今でも通用するものが少なくありません。
にもかかわらず、それらの原則がどのような状況で有効になるのかは、あまり深く掘り下げられることがありませんでした。そのため、後に経営学を大きく進展させることになるサイモン(Simon, H. A.)からは「管理原則はことわざにすぎない」という強烈な批判を浴びることにもなります。
これ以降、管理原則論は、学問としての経営学ではそれほど論じられることはなくなりましたが、現代でもこれに似たような話はしばしば提唱されます。
それは、実務的な成功体験を言語化し、共有可能な知恵として提供しようとする試みと言えます。こういった試みから生み出される管理原則は、そのままで学問的な基準をクリアしているとは言えません。しかし、こういった実践から導き出された原則は、時としてそれまでの経営をめぐる考え方に対して異なる面から光を当てることも可能です。
使い方に留意すれば、経営を考えるうえで、なお有効な面があるのです。
3. 経営にとっての合理性とは何か:20世紀初頭の経営観
前回のテイラー、今回のチャーチとファヨールと、2回にわたって経営学の生成期ともいえる時代の考え方をとりあげてきました。この時期の経営学は、現代的な観点からすれば、まだまだ学問と言えるほどの体系性をもってはいませんでした。また当時は、経験のなかから共通する(と思われる)法則や原則を抽出することが科学であると考えられていました。これらが、どこまで他の現実を説明するのに有効であるのかという点の検証は、まだまだ手薄だったと言わざるをえません。
とはいえ、こういった議論が合理的な経営の可能性を探究するものであったことは間違いありません。実際に合理的であるのかどうかは、現代からみれば疑わしいところがあるとしても。だからこそ、シェルドンのように非合理とも映るような意思決定がなされることもある経営政策/ポリシーに光を当てる議論は稀少だったのです。ファヨールも管理; administrationについては論じたものの、その上位に位置する役割としてのgovernment/gouvernement(訳書では「経営」と訳されています)は直接取りあげてはいません。やはり、そこには合理的な説明だけでは説明しつくせない要因があるのをファヨールが認識していたということでしょう。その意味で、この時期の経営観は合理性が主軸になっていたと言え、この流れは今も受け継がれているのです。
前回と今回で取りあげた議論には多くの課題がありました。それゆえに、あとになって数多くの批判も受けています。しかし、これらの議論によってひとまずは、経営を捉えるための見方が提示されることになったわけです。それによって、経営という現象、そして実践を論じるための舞台が整えられていったのです。そのことの意義は、非常に大きいものがありました。
加えて、19世紀末から20世紀初頭にかけて、大学という研究教育機関においても経営が学問の対象となりはじめます。たとえば、ハーバード大学では1911-12年度にビジネスポリシーの講座が設立され、ケーススタディなどの方法を採用。トップマネジメントの意思決定を議論し、体系化しようとする試みが始まります。また、産業革命後進国であったドイツでも、エリート・ビジネスマンの育成が急務となり、そのための研究教育機関として商科大学(Handelshochschule; 専門職育成に重点を置いた高等教育機関)をライプツィヒなどに設立。そこで教授するための学問として、私経済学(Privatwirtschaftslehre=民間的経済主体についての経済学)、さらに経営経済学(Betriebswirtschaftslehre=企業をはじめとする事業組織の経済学)として知識の体系化が図られます。
このように、経験則としての経営の議論(チャーチ、ファヨール)から、それを客観的・論理的に分析しようとする学問としての経営学への転換という道筋も拓かれたのが、この時代でした。
とはいえ、この時代の論者は、そのほとんどが実務家でした。この時期は、経営学という学問が、実務の現場からの知恵を土台として、まさに生まれてくる直前の時代だったと言えるでしょう。
こういった時代を「古い」と片付けてしまうのは、やや早計です。経営学は個々のさまざまな実践から、他でも転用可能であるように抽象化を行い、それを足がかりにしながら実践に活かすことで発展してきた側面があります。まったく同じ環境がないから無意味と断じてしまうのではなく、実務家が自身の環境における試行錯誤する取り組みによって、適応したり利用できる観点がないか、実務を抽象的に捉えたり別の確度から検証する際に、学問的な知識をうまく扱うヒントがあるとも言えます。この批判と議論は、現代にも通じるものでもあります。
4. おわりに:合理性の探究と、そこから顔を出す非合理的側面
チャーチとファヨールは、企業をトータルに動かすための「管理機能」という概念を打ち立て、合理的な計画と統制の重要性を示しました。彼らの探究は、何が合理的であるかを、経験則に基づきながら体系的に整理しようとした試みでした。
しかし経営とは、経済的・合理的な側面だけで成り立っているわけではありません。シェルドンが「ポリシー」として着目したように、トップの意思決定や、組織を構成する「人間」という要素は、しばしば合理性だけでは割り切れない側面を持ちます。
今後の連載で取りあげる予定のアントレプレナーシップをめぐる議論も、この非合理的側面に接近していると言えます。
さらに、経済的な面からみれば合理的ではないけれども、異なる角度から光を当てると異なる“理”が浮かび上がってくることもあります。それが、人間の社会的側面です。
ここに焦点を当てた人間関係論について、次回はみていくことにします。
参考文献リスト
- Church, A. H., The Science and Practice of Management, New York: Engineering Magazine, 1914.
- ファヨール,H.(佐々木恒男訳)『産業ならびに一般の管理』未來社、1972年。
- ポーセル,J-L.(佐々木恒男監訳)『アンリ・ファヨールの世界』文眞堂、2005年。
- レン,D.(佐々木恒男監訳)『マネジメント思想の進化』文眞堂、2003年。
- シェルドン,O.(田代義範訳)『経営管理の哲学』未來社、1974年。
- 経営学史学会監修、中川誠士編『テイラー』〈経営学史叢書 I〉文眞堂、2012年。
- 経営学史学会監修、佐々木恒男編『ファヨール』〈経営学史叢書 II〉文眞堂、2011年。
- 佐々木恒男『アンリ・ファヨール:その人と経営戦略、そして経営の理論』文眞堂、1984年。
- 仲田正機『現代アメリカ管理論史』ミネルヴァ書房、1985年。



