『コ・デザイン —デザインすることをみんなの手に』出版記念ライブ 〜わたしたちにとって「デザインすること」とは?

2021.03.24/62

2020年12月、上平 崇仁さん(専修⼤学ネットワーク情報学部教授)による書籍『コ・デザイン —デザインすることをみんなの手に』が出版されました。

「コ・デザイン(Co-Design)」とは、限られた専門家だけでなく、実際の利用者や利害に関わる人々が積極的に加わりながらデザインを進めていくアプローチです。厄介な問題(Wicked Problem)に立ち向かわなければならない時代に、新しい視座を与えてくれる方法論として注目されています。

本動画では、著者の上平さんをお招きし、ミミクリデザインの瀧 知惠美と小田 裕和とともに「デザインすること」「デザインをひらくこと」といったテーマに迫ります。

ゲスト

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上平 崇仁
専修⼤学ネットワーク情報学部教授

7:10~ 上平先生より書籍紹介
まずは、この本を書くに至った3つの背景を紹介したい。

①インプロビゼーション(即興演劇)
インプロとは十数年前に出会った。そこで思い知ったのは「「何かを思いつく」という現象は、実は自分一人では完結せず、周囲との関係のなかで生まれている」ということ。だからこそ、いかに他者が重要で、同時に対話が必要かということを痛感した。

②デンマークでのプロジェクト
ルイジアナ美術館が主催した都市デザインのワークショップにカメラマンとして参加した際。ワークショップでは、参加者の中学校1年生がプロトタイプをしたり提案を実際に市役所に持ち込む機会があったりと、「学ぶ」と「デザイン」を両立させることに対する気合の強さに衝撃を受けた。

「好奇心はみんな最初からあるわけじゃない。それをつくるために教育の場があるんじゃないか。」

「コ・デザイン」よりも「参加型デザイン」という言い方のほうが馴染み深い人もいるだろうが、その概念は「デザイナーが中心となって参加してもらう」というニュアンスが強く、意図したいものではない。

また、他のプロジェクトでも、デンマークではいろんなことを“透明”にして、プロセスを見せるカルチャーがあり、そのデザインにおける重要性を感じた。

③ミャンマーでのワークショップ
「犬カフェ」というよくやっているワークショップをやったところ、「犬が傷ついた人間を癒すことができる」という日本とは全く発想が違うコンセプトの提案があった。消費するだけではなく、いかに(人間以外の)物事とも対等に向き合うのかという思想を感じ、考えさせられた。

私たちはよく、海外の上手いやり方をただ輸入したくなってしまうが、やはり自分の足元をよく解釈することが重要。そうして、私たち自身が自分の可能性を広げることに取り組んでいくべきではないだろうか、という問いがこの本の背景にはある。

21:08~ パネルディスカッション導入
「デザインする、って結局どういうことだろう?」ということを、今日は、今一度考え直してみたい。

以下のキーワードを取り上げながら、ディスカッションを進めていきたい。
・デザインをひらく
・「いっしょにデザインする」のは誰?
・with People と by Ourselvesの間
・デザインにおける「態度」:ものごとへの「向き合い方」
・「わたし」と「わたしたち」

24:03~ 「デザインをひらく」とは
「持続しないものが世の中に多すぎるのではないか」という問題意識があった。

だらこそ、いかに活動を続けていくか、ということを考えている。特に意識しているのは、「問題に対して、我々が熱い想いを持てるか」ということ。他人事になると、妥協したりルーティンワーク化してしまう。

26:44~ 「いっしょにデザインする」
今やっているプロジェクトの1つに、高校の先生とやっているものがある。すでに日々忙しいなかで、「情報デザイン」という新しいものを教えなければいけない、という状況は非常に難しい。

情報デザインの授業のやり方というのは「我々の側の理屈を押し付ける」のではなく、「先生方のなかで立ち上がってくるもの」。先生が先生なりにデザインを引き受け、「高校生にとっても日常のなかにどのようなデザインの問題があるのか」という視点に眼差しを当てていかなければいけない。

29:39~ デザインの対象は、すでに日常のなかに存在する
ただ、それを伝えるのは難しい。

工夫として今行っていることの1つは、高校生が忘れ物をしないために「どんな工夫をしているのか」ということをテーマにすること。忘れ物を「うっかり」で終わらせず、情報デザインの問題として「どのような仕組みがあれば防げるのか」を一人一人が考えられるような機会が必要。

31:15~ with People と by Ourselvesの間
外にある問題を分解して対処しようとするのではなく、むしろ自分たちの中に存在している問題・状況をデザインの対象として捉え直し、周囲の助けを借りながら解決させようとする、という営みがデザインだと考えている。

最初はもちろん、「with People」でいっしょに作っていく必要がある。しかしだんだん自立して、問題発見~解決までできるように、お互いが変わっていかなければいけない。

32:38~ どうして「ひらく」という言葉を用いたのか?
「良くも悪くも、閉じた問題の方がやりやすい」のは確かにその通りであるが、「ひらく」はそういう考えへ対義語である。

閉じるというのは、デザインの専門知や営みをデザイナーだけのものとして留めておくこと。また、デザイナーだけではなく、使い手側も「それはデザイナーの領域だから」と閉じてしまうことがある。

デザイナーは、使い手からは見えないプロセスを説明する必要があったと思う。そうすることで、お互いへの適切な尊敬が生まれてくる。

デザイン史の流れの中で位置付けると、産業革命以降、デザインという行為が閉じる向きで発展してきたのを、改めて「いっしょにデザインする」という方向で揺り戻そうとしているのではないかと思える。

またそもそも、「何が専門なのか」ということがよくわからなくなってきてしまったというもの事実だろう。

36:32~ “デザインをひらく”役割は誰が担うのか?
「デザイナーの仕事が複雑さが、デザインが閉じざるを得ない要因の1つであったのではないか」というコメントがあった。

一方で、なんだかんだデザイナーが「言語化はできない」と諦めてしまっていたという部分もあるのではないか、と上平先生は言う。

そういう観点で、“ノーコードアプリ”は面白い。普段使っているアプリはよくデザインされているので、デザインの専門性自体に気づかない。だからこそ、実際に自身が作ってみることでデザイナーではない人が、見えなかった「デザイン」の専門性に気づくことができる。

企業のロゴをデザインするプロジェクトでも、企業の人たちが「わ、デザイナーの人がすごいかっこいいロゴを作ってくれた!」という感想で終わってしまうような場合は、やはりうまくいかない。

「ロゴを活用して、企業のアイデンティティを形成していこう」という“受け取り手によるデザイン”がなければならない。「する-される」の関係性を超えて、「みんな、日々デザインしている」という前提に気づくことが重要。

そういう意味では、スケッチの果たす役割にも可能性がある。

デザイナーにとって、スケッチは形を考えるためのものである以上に、描くことで自分の嗜好を観察し発見することができるツールである、という意味合いが大きい。

デザイナーが使っているスケッチという力を色々な人が使えるようになることで、デザインやデザイナーに対する理解が深まっていくのではないだろうか?

47:11~ 便利とデザイン
便利にする向きは、使い手の感じる力を退化させる可能性も孕んでいる。特に、現在のように誰も答えを持っていないような時代を乗り越えるためには、そのような「感じる力」がむしろ大事なのではないだろうか?

『料理と利他』という本のなかで、「レシピを使うと、料理人ですら感覚を使わなくなる」という話があり、非常に共感した。

一方で、料理の知識を閉じすぎると、それはそれで「他人事化」が進み他責が蔓延する社会になっていくのも事実。ここにデザインのかかえる、構造的葛藤がある。ただし、これは「どちらか一方がいい」という問題ではなく、悩み続けていくべきもの。

51:16~ 「わたし」と「わたしたち」
「わたしたち」という概念が大事なのは、その「わたしたち」というもの自体を問うていかないと、その「外側」を考えなくなっていくからである。

例えば、水俣病の事例でも、当時東京に住んでいた人たちにとって、どうしても水俣が遠かったために「水俣病に苦しむ人が、いないことになってしまっていた」状態が生まれていたのではないだろうか?

あえて「わたしたち」と範囲を定めることは、デリケートな問題であり、外側に対する意識が向かざるを得ない。

新しいものを作ろうとするとき、意外と盲目的に「わたしたち」という言葉を使ってしまう。「わたしたち、は誰か?」という問いは、デザインをするときに持っておくべき視点なのかもしれない。

56:01~ お知らせ

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