あいだを保つ対話 − モーリス・ブランショの対話観 −【連載】対話観を巡る旅 第6回

あいだを保つ対話 − モーリス・ブランショの対話観 −【連載】対話観を巡る旅 第6回

/

35分

【お知らせ】本連載の連動企画として「対話」を哲学と実践の両面から問い直す動画シリーズ『対話を巡る対話』が公開中。ゲストは哲学研究者の佐々木晃也さん。20世紀の思想家たちの対話観を手がかりに、他者との関係性の中で生まれる複雑な問題への向き合い方を探ります。

20世紀の対話思想をふり返る:“自分の言葉”ってあるの?

20世紀の対話思想をふり返る:“自分の言葉”ってあるの?


距離を保て。
間を維持しろ。
一致を目指すな。
完全な同意など存在しない。

差異へ。
もっと差異へ。
もっともっと差異へ。
合意の背後に流れる差異を感じよ。

このような対話観を示したのが、20世紀フランスの文芸評論家・哲学者のモーリス・ブランショ(1907–2003)である。

本連載「対話観を巡る旅」では、「対話の思想家」と思われる人たちの多様な対話観を紹介している。第6回となる今回は、モーリス・ブランショの対話観を取り上げる。

ブランショの対話は、英語の「ダイアローグ(Dialogue)」ではない。「あいだを保つ」という意味を含むフランス語の「アントルティアン(Entretien)」である。

西洋哲学において「ダイアローグ」の対話は、真理や合意へと至る「弁証法的な道筋」として位置づけられてきた。しかし、「アントルティアン」の対話は、合意を目指さない。むしろ、積極的に差異へと向かおうとする。

「ダイアローグ」は、二人のあいだに溝があれば、そこに橋を架けようとする。一方、ブランショの「アントルティアン」は橋など架けやしない。しかしながら、コミュニケーションを諦めたわけでは決してない。

正直に言おう。「ダイアローグの対話観」に長らく染まっていた私にとって、ブランショの「アントルティアンの対話観」は、大きな衝撃であり、一つの事件でもあった。彼との出会いは、私の価値観を根底から転覆させたのである。

しかし、今思えば、それは必要なことだった。ぜひ読者の皆さんも、ブランショに触れることで、自分自身の対話観を見直し、新たな対話観を再構築してみてほしい。

では、さっそく見ていこう。

「アントルティアン」とは何か

ブランショ後期の主著『終わりなき対話』の原題はフランス語で『L’Entretien infini』である。フランス語には、英語「Dialogue(ダイアローグ)」と同じ綴りの「Dialogue(ディアローグ)」もあるが、ここで採用されているのは「Entretien(アントルティアン)」である。

「L’」は英語でいう「The(定冠詞)」であり、「Entretien」は「entre(あいだに)」と「tenir(保つ)」を由来とする動詞「entretenir(保つ、維持する)」の名詞形である。

名詞になることで、「Entretien」は「対談」「対話」「会談」「会見」の意味を持つ。そして同時に、「維持」「保守」「メンテナンス」という意味も併せ持つ。そこに「infini(無限の・終わりなき)」がついて、『終わりなき対話』となる。

ちなみに、英語版では『The Infinite Conversation』と訳される。やはり、こちらも「ダイアローグ」ではない。

では、「アントルティアン」の対話とは何か。ブランショの言葉は難解なので、先に『終わりなき対話』の訳者の一人である郷原佳以の訳註を見てみよう。

二人の人間が言葉を交わし合うとき、言葉の交換によって二人がすぐさま心を通じ合わせて接近し合い、意見の一致を見る、というのではなく、(…)二人を隔てる「あいだ」がいつまでも維持され、それどころか、その「あいだ」こそが二人の言葉の宛て先であり、二人の言葉を引き出す原動力である、そのような「あいだ」を「保つ」対話こそ、ブランショの考える「対話」、«entretien»である。¹

前半の「意見の一致を見る」は「ダイアローグ」を暗に意味している。そして、その対比として、ブランショの「アントルティアン」の対話を「あいだを保つ対話」と呼んでいる。

さて、ここで、いよいよブランショの声に耳を澄ませてみよう。ブランショは「アントルティアン」についてこう語る。

対話〔あいだに − 保ち支えること:entretien〕とは、この〈二つのもの − の − あいだ〔entre-deux〕〉から出発した接近である。こういう〈二つのもの − の − あいだ〉というのは隔たりであるが、そうした隔たりは、もしひとが未知なるものとの関係を——すなわち、対話する言葉が与えてくれる比類のない贈り物である、そんな関係を——維持したいと願うならば、ぜひとも保全しなければならない、還元不可能な隔たりなのである。²

つまり、ブランショにとっての対話(アントルティアン)とは「二つのもののあいだから出発した接近」であると同時に、あいだ(隔たり・距離)を保持し続ける行為である。

例えば、「初めまして」の場面を想像してみよう。相手のことを全く知らない段階では、二人を隔てる「あいだ」は分厚く遠く感じるに違いない。対話は、その「あいだ」を少しずつ詰めながら接近していくことからはじまる。

しかし、近づきすぎると、人は却って離れたくもなる。なぜなら、相手のことがよく見えてくると、見たくなかったものも見えてくるからである。その逆もしかり、自分の嫌なところを見られてしまう可能性も高まる。そこで、距離を保つ必要性も生まれてくる。

また、距離の詰め方の速度もあるだろう。ぐいぐい距離を詰めてくる相手に対して、つい引いてしまうこともあるだろうし、逆に、全く接近しようとしないことで、自分には関心がないのだと相手に思わせてしまうかもしれない。人間関係には、距離の保持が肝心である。

そして、相手との「あいだ」(隔たり・距離)を常に意識しながら、時に近づき、時に離れ、その「あいだ」を保ち続ける対話こそが、ブランショの「アントルティアン」なのだ。

二人の間の深淵を渡る「言葉」

ブランショは、「あいだ」や「隔たり」という言葉に、その本質をえぐり出すかのような、象徴的なメタファーを付与する。それが「深淵」である。

「深淵」という表現は、単なる距離や違いを越えて、決して埋めることのできない、底知れない断絶を示唆している。この断絶を前にして初めて、言葉はその真価を発揮するのだと、ブランショは考えている。彼は、こう言う。

言葉は「私」と「他なる人」のあいだにある深淵を肯定し、そして乗り越えて渡ることのできぬものを乗り越えて渡るのだが、しかしその深淵を消し去ることも、減少させることもない。³

一見すると、回りくどい言い方にも聞こえるが、ゆっくり見ていけば、納得もできる。「乗り越えて渡ることのできぬもの」とは「深淵」であり、その深淵を「乗り越えて渡る」のが「言葉」である、ということである。

では、「乗り越えて渡ることのできぬ深淵を、乗り越えて渡る言葉」とは、どのようなものなのだろうか。ブランショは、こう語る。

そういう言葉は、統一化するのではなく、もはや通路や橋ではなくなることを受け入れる言葉である。橋を架けるのではなく、深淵が分かつ二つの岸を、深淵を埋めることなく、また、それら二つの岸を再び統一することなく(すなわち、統一性=一体性へと準拠することなしに)、乗り越え、渡ってゆく言葉なのである。⁴

ここに、「ダイアローグ」の対話観からの大きな転換がある。「ダイアローグ」が目指してきたのは、深淵に橋を架け、二つを一つに統一する動きであった。しかし、ブランショは、深淵を埋めるどころか、むしろ肯定する。そして、橋を架けることなく、深淵を渡っていくのが「言葉」なのである。

これらのブランショの言葉から私の中にある一つのイメージが湧いてきた。それは「紙飛行機」というメタファーである。

二人のあいだには、埋められない絶対的な深淵が横たわっている。しかし、言葉は深淵を飛び越え渡ることができる。実際の物理環境においても、そうだ。向こう岸にいる相手に「おーい!」と呼びかければ、身体は渡れなくても、言葉だけは渡ることができる。

しかし、同時に、紙飛行機は不安定でもある。精一杯に投げたとしても、向こう岸に届かないこともある。また、思わぬ方向に飛んだり、途中でくるりと一回転したり、羽が折れたりしてしまうかもしれない。こうした「コントロールの不可能性」「意味の不安定さ」を紙飛行機のメタファーに込めた。

さらに、ブランショは、こうも言う。

一方の側で、一度言われたことが、他方の側で、もう一度言われる——それも、ただ単に再び肯定=言明されるというだけではなく、(再開始が行われるのであるから)新たな肯定=言明の一形態へと引き上げられてもいる。そういう新たな肯定=言明の一形態においては、言われた物事が、場所を変えることによって、それ自身の差異との関係に入る⁵

要するに、同じ言葉を使い、同じことを繰り返したとしても、そこには「差異」が仕方なしに生じてしまう、ということである。むしろ、そうした場面でこそ、話された事柄は「よりいっそう深く差異化される」⁶とも言われる。絵にすると、こんな感じだろうか。

同じ「A」という意見を発したとしても、その意味は一致しない。例えば、私が「対話が大切だ」と言う時と、あなたが「対話が大切だ」と言う時では、同じ言葉を使っていても、その意味や背後にある願いは異なるだろう。ひとたび、「それはどういう意味で言ってますか?」と尋ねれば、同じ言葉の背後で働いていた「差異」が顕在化するはずだ。

ブランショに言わせれば、完全な一致などありえないのだ。だからこそ、ブランショは、「あいだ」や「隔たり」のことを、絶対的な乗り越えられなさを暗に意味して「深淵」と呼びたかったのだろう。しかし、逆説的に、こうした「圧倒的な深淵」があるからこそ、私たちは言葉を尽くし、語りはじめるのである。

対話とは矛盾する二つの運動である

さて、ここまで読むと、統一に向かう「ダイアローグ」が否定されているようにも思えてくる。しかし、実はそうではない。ブランショは、こう言う。

同等化する傾向があるものによって、いかにして非同等性を言うことができるのか。双方の項どうしのコミュニケーション〔疎通=共通化〕の運動そのもののなかで、また、それらのコミュニケーションの名の下に、項どうしの非−共同性〔非−共通性〕をいかにして肯定できるのか。私たちが目下用いている言語にできるのは、もっぱら、唯一「正当な」言葉に、すなわち弁証法的なものとしての言葉に、私たちを送り返すことだけだ、このことを忘れないでおこう。⁷

まさに、ここで言われている「同等化する傾向」や「双方の項どうしのコミュニケーション〔疎通=共通化〕の運動」こそが「ダイアローグ」である。ここで注目すべきは、そうした「ダイアローグ」の〈なかで〉あるいは〈名の下で〉、「非同等性」や「非−共同性」という差異を大切にできるか、と問うている点である。

私たちにできることは「弁証法的なものとしての言葉に、私たちを送り返すことだけだ」と言っているように、つまり、あいだを保つ「アントルティアン」は、統一に向かう「ダイアローグ」の名の下に生きており、二つは矛盾しながらも表裏一体なのである。

さらに、ブランショは、両者の関係についてこう述べる。

言葉のこれら二つの経験——一方は同等化の作業であり、そこではあらゆる非同等なものがつねに包み込まれるように定められているが、他方は、その同等の真理から、あらかじめ、自ら進んで出ていく——、これら二つの動きは、いっしょに維持しなければならないが、また同様に必然的に互いに相容れない。⁸

私たちは言葉を交わす時、お互いに「わかり合おう」とする。これは「同等化の作業」であり、つまり、「ダイアローグ」の「統合化の運動」である。しかし同時に、ブランショの言う「アントルティアン」を大切にする者は、その同等化から「自ら進んで出ていく」。つまり、それは「差異化の運動」とも呼べるだろう。

そして、この二つは「いっしょに維持しなければならない」が「互いに相容れない」。この分かり合おうと(統合)するからこそ、分かり合えなさ(差異)が際立つという、緊張をはらんだ運動。この逆説こそが、ブランショの対話観の核心なのだ。

とすると、「ダイアローグ」と「アントルティアン」は「コインの裏表」の関係のようにも思えてくる。コインの表では「ダイアローグ」(統合化の運動)が展開され、その裏面では同時に、「アントルティアン」(差異化の運動)が働いているイメージである。

そもそも「ダイアローグ」(統合化の運動)は、前提に「差異」があるからこそはじまる。あいだを隔てる深淵があるからこそ、他者を理解しようと、人は言葉を尽くす。しかし、「統合化=同等化」の運動が強まれば、同等化から自ら進んで出ていく「アントルティアン」(差異化の運動)も高まっていく。

つまり、対話とは「ダイアローグ」(統合化の運動)と「アントルティアン」(差異化の運動)という矛盾した二つの運動が同時展開される現象なのである。

そう考えてみると、「アントルティアン」の視点を欠いた対話は、ともすれば「〈無限の差異〉に無自覚で無垢な対話主義」とも言えるだろう。それは、見かけ上の合意や共感に安住し、その裏にある多様な意味や差異を取りこぼしてしまう危険性をはらむ。

一方で、「アントルティアン」を伴った対話は、「〈無限の差異〉に自覚的で緻密な対話主義」に私たちを導く。それは、統合(ダイアローグ)へと向かう動きの中にありながら、同時に、差異(アントルティアン)へと開き続ける、終わりなき運動なのである。

それゆえ、ブランショの対話は、終わることがない。だからこそ、「終わりなき対話」と呼ばれるのである。

「あいだ」にいる「第三者」の存在

さて、ここまでは、ブランショの「あいだを保つ対話:アントルティアン」の対話観の大筋を見てきた。ここからは、その深層にさらに迫るべく、「第三者」「彼=それ」「中性的なもの」といったキーワードにも目を向けてみよう。

普通、「私」と「あなた」という「二者間の対話」を想像した時、そこに存在するのは当然二者だろう。しかし、不思議なことに、ブランショは、その二者の「あいだ」には、常に「第三者」が存在する、と考えている。

例えば、『終わりなき対話Ⅰ』の最初に、本のタイトルと同じ「終わりなき対話」という物語が収められているが、そこでは二人の疲労した高年男性の対話が描かれている。そこには、こんな描写がある。

彼らはテーブルを隔てて席を占める、といっておたがいに相手のほうを向いて座るのではなく、そこに第三者が現われたら、自分こそが彼らの真の話し相手だと思いこんでしまう、そんなことが可能なほどに十分広い間隔を空けながら、彼らを隔てるテーブルのまわりに座を占める。彼らはそういう話し相手のために話をしていると言えるのかもしれない。⁹

ここには、まさに二者の「あいだ」に存在しうる「第三者」が暗示されている。¹⁰もちろん、それは「特定の誰か」ではない。むしろ、誰でもない、匿名的な存在であり、ブランショの言葉で言えば、非人称的な「彼」とも呼ばれるものである。

ブランショの初期から中期にかけての主著『文学空間』において、書くことは、作者の「私」が消え去り、非人称的な「彼」が代わりに書くのだ、と考えた。それは、私を超えて、自動書記のように何者かに書かされるような事態のことである。それゆえ、書くとは「私は」から「彼は」へ移行することだ、とも言われる。¹¹

そうした「彼」は、『終わりなき対話 Ⅲ』においては、「彼=それ〔il〕」¹²あるいは「それ=彼〔il〕」とも言われるが、書く行為の中だけではなく、物語る行為の中の用語としても使われる。例えば、こんなふうにである。

「それ=彼〔il〕」とは、ひとが物語るときに起こることという定かならぬ出来事である。(...)語り部の歌とは、ある記憶を前にして、出来事が言葉へとやって来て、そこで完成するところの拡がりである。(...)物語ることは神秘的なことである。(...)「それ=彼」はまずもって、歴史=物語〔histoire〕(この語の十全な、魔法のような意味において)の非人称的な一貫性となる。¹³

難解な言葉だが、要するに、人が何かを語る時、「私」という個人を超え出た「それ=彼〔il〕」という存在が語り出す、ということである。これは少し大げさに聞こえるかもしれない。しかし、考えてみれば、日常で「ふと思ってもなかったことを口走ってしまった」という経験はよくあるだろう。その時、私たちの背後で働いている何か、私たちを語らせている何か、それをブランショは「それ=彼〔il〕」と呼んでいるのである。

そして、そのような「それ=彼〔il〕」は「中性的なもの」とも言われる。「中性」と言われるのだから、それは男性でも女性でもなく、主観でも客観でもなく、主体性さえも持たない。そのような「無名の非人称的な領域」から、私たちの声は生まれてくるのである。

さて、随分と遠くまで来てしまった感じもあるが、ここで最初の「二者間の対話」の場面に戻ってみたい。まとめると、こうである。

二人の「あいだ」には、匿名の実在しない「第三者」がいる。それは、書く行為の中で現われる「私」を超え出た「彼」と似たような存在であり、物語る行為においては「彼=それ〔il〕」とも呼ばれた。そして、それらは、何とも表象しがたい「中性的なもの」であった。

そう考えてみると、二人の対話は、おそらく二人だけの対話ではない。二人の「あいだ」に横たわっている「第三者」(≒「それ=彼〔il〕」≒「中性的なもの」)が、二人を対話に向かわせていたのである。

もっと言えば、「あいだ」そのものが「第三者」である、とも言える。とすると、私の声は「私の声」でありつつ、「あいだの声」として生じていた、と言ってもよいだろう。「あいだの声」が「私の声」を通して代弁するのである。

だからこそ、ブランショは何度も繰り返し、「あいだ」を埋めて、差異を根絶する「ダイアローグ」の危険性に警告を鳴らしていたのである。

「複数性の言葉」で話す

最後に、ブランショの対話観を締めくくる上で欠かせない、「複数性の言葉」という概念にも触れてみたい。

ブランショは、「アントルティアン」の対話の性格を明らかにするために、「複数性の言葉」という用語を導入する。彼は、こう語る。

複数性の言葉とは、その単純なかたちでは、ある種の肯定=言明の探究であり、どんな否定の作用もかわして逃げ去るのだが、統一化=一体化する作用を行わず、自ら統一化されてしまうこともなく、いつも差異へと——すなわち、つねによりいっそう、異なること=差異化すること〔différer〕へと誘われている差異へと——送り返されるような肯定=言明の探究なのだ。¹⁴

「統一化=一体化する作用」とは、まさしく「ダイアローグ」のことである。それに対比して、「差異化する作用」が「アントルティアン」である。そして、その時のアントルティアン側の言葉が「複数性の言葉」とされるのである。

では、その「複数性の言葉」とは何か。もう少しブランショの声に耳を澄ませてみよう。

本質的に非−弁証法的な言葉である。この言葉は絶対的に他なるものを言う、つまり、けっして同じものへと還元されることがなく、ひとつの全体のなかに場を占めることもけっしてない、絶対的に他なるものを言うのである。¹⁵

冒頭でも、「ダイアローグ」は真理へと至る「弁証法的な道筋」として位置づけられてきた、と言ったが、「アントルティアンの言葉」(=複数性の言葉)とは、まさに「非−弁証法的な言葉」なのである。だからこそ、決して、同じもの(統一)へと還元されることがなく、絶対的に他なるもの(差異)を言うのである。

さらに、ブランショは「一度の言語活動において複数の言葉を話さねばならぬ」¹⁶とも言う。私たちは、どうやら言葉の「二重性」を背負っているらしい。どういうことか。読んでみよう。

言葉を話すということは、その働きのなかに、ある本質的な二重性〔duplicité〕をつねに移動させることであり、人々はこの二重性を論理の諸規則によって縮減すると主張しつつも、そこから利点を引き出す——そういう二重性とは、両義性であり、また、〈諾(ウィ)〉と〈否(ノン)〉との非決定である。¹⁷

少し複雑な表現だが、こういうことである。まず、言葉には常に「二重性=両義性」がある。それは、〈諾〉(ウィ=Yes)と〈否〉(ノン=No)との非決定であり、矛盾する二項が同時に存在しているような状態である。

日常的な文脈で考えてみよう。「今日のランチは、ナポリタンを食べる」と言ったとする。その時、その言葉を発する手前では、「ナポリタンを食べる(諾)」と「ナポリタンを食べない(否)」という二つの選択肢、つまり「二重性の言葉」がありえただろう。さらに言えば、ナポリタン以外の「カツ丼を食べる」や「ラーメンを食べない」など、他の可能性としての「複数性の言葉」も控えていたはずだ。

つまり、私たちが言葉を話す場面では、常に「複数性」の中から、あるいは「二重性」の中から、「一つの言葉」が選択され、表向きには「一重性の意味」として展開されていたのである。それは、言語活動の特性上、仕方がないことである。何かを言うことは、何かを言わないことなのだから。

しかし、ブランショは、本来、そうした複数性や二重性は縮減しえない、とも考えている。例えば、仮に「ナポリタン」が選ばれたとしても、「カツ丼」や「ラーメン」など他の可能性がなかったことにはならない。

とは言え、複数性の言葉を話すことは、それが複数であるがゆえに、困難である。ブランショも、この複数性を一人で抱えるのは「あまりにも重い」¹⁸と表現する。そう、重いのである。そこで「ダイアローグ」が役に立つ。ブランショはこう言う。

この二元性を分かち持つべく、対話〔dialogue〕が私たちを助けてくれなければならない。私たちが二人となって、二重の言葉を担うと、それは分割されて重さが軽くなり、とりわけ、時間のなかで展開される交替によって継起的になることで軽くなる。¹⁹

つまり、二元性(二重性)や複数性を保ったまま発言するのは「重い」。それゆえ、軽くするために「ダイアローグ」が採用される。それをブランショは「賞賛すべき策略」とも呼び、認めもするが、しかし、そのせいで「単純化されるはずのない差異」が失われてしまった、と嘆いてもいる。²⁰

こうした背景から、ブランショは「複数性の言葉」を重視する。それは「一度の同じ言語活動において二重に話す苦労」²¹であり、その苦労を引き受けることである。それが「アントルティアンの言葉」であり、「複数性の言葉」なのである。

では、そのような「複数性の言葉」はいかに発せられるのか。ブランショは、『終わりなき対話 Ⅰ』の最終章「複数性の言葉」の中で、畳み掛けるようにこう言っている。

「もっぱら統一性を視野に入れて思考するのを止めよ」
「恐れることなく中断と断絶を肯定せよ」
「真に複数性である言葉を提案し、表現するに至ること——それは無限の責務である——を目標にせよ」
²²

そして、こう言う。

〈差異〉のほうへ、と。²³

つまり、ブランショは一貫して、〈統合〉する力に抗え!〈差異〉に向かえ!と言っていたのではないだろうか。

しかし、ここで前に紹介した言葉を思い出しておきたい。私たちの言語活動は、結局のところ、「ダイアローグ」(統合化の運動)の言葉に私たちを送り返すことしかできない、というあの言葉を。

つまり、「ダイアローグ」と「アントルティアン」は表裏一体であった。だからこそ、私たちにできることは、表では「ダイアローグ」を使いながら、その背後で「アントルティアン」を働かせることなのである。

最後に、これまでのイラストも含めて一枚にまとめるならば、こういうふうに図示できるのではないだろうか。

言葉は「あいだ ≒ 中性的なもの ≒ 彼=それ ≒ 第三者」から生まれてくる。そこには、あらゆる「複数性」と「二重性(諾と否)」がある。それらを一人で抱えるには重い。だから、二人で分かち持つ「ダイアローグ」で軽くするしかない。

しかし、表の「ダイアローグ」だけでは「統合化の運動」(=複数性と差異を撲滅する力)が強い。だから、裏で「アントルティアン」(差異化の運動)を作動させる必要が出てくる。作動させるとは、差異を意識する、ということだ。差異に注意を払う、ということだ。

つまり、「あいだ」から生まれてくる言葉に耳を澄ませながら、表でダイアローグを、裏でアントルティアンを駆動させる、これこそが「複数性の言葉」で話すということではないだろうか。

「あいだを保つ対話」をどう活かせるのか

さて、今回はブランショの対話観を紹介してきたが、これまでにない長い旅路となった。最後に、ブランショの「あいだを保つ対話」をどう活かしていけるのか、私なりの視点を3つ挙げたい。

まず、一つ目は、「対話は『ダイアローグ(統合化の運動)』と『アントルティアン(差異化の運動)』の二重の運動である」と捉えると、見えてくる景色が変わる、ということである。

例えば、ある会議において、この二重の視点を持っていたら、話し合いを促すアプローチの幅も広がる。一つは、違いに着目し、差異化を広げていく促し方である。「逆の意見はありますか?」「他に意見はありますか?」という声がけは、差異と複数性を増やす典型的なものだ。また、「それは、どういう意味ですか?」と聞く場合も、表面上の意味の背後にある「差異」に目を向けている。これも一つの「差異化の運動」である。

もう一つは、合意を目がけ、統合化を進めていく促し方である。様々な意見が出揃った上で、まとめようとする動きである。「では、どうしていきますか?」と向かうべき方向に舵を切る。ブランショに言わせれば、完全な合意はありえないが、それでも「仮の合意」がなければ、対話は延々と終わらない。だからこそ、対話には「差異化を促す動き」と「統合化を促す動き」の両方が必要なのである。

二つ目の視点は、第三者のまなざし、である。表面上では「二者間の対話」だとしても、その「あいだ」には「第三者 ≒ それ=彼 ≒ 中性的なもの」が潜んでいた。かつ、そうした「第三者」こそが、私たちの声の源泉でもあった。

具体的な実践を考えるならば、誰かと大切な話をしたい時、それをどんな場所、どんな形式でするかは、とても重要になる。例えば、窓のない会議室なのか、窓のある会議室なのか。間にテーブルを挟んで真正面に座るのか、斜めに座るのか。このように「あいだ」に何が物理的に存在するかによっても、対話の質は変わるだろう。

もっと大胆に発想を変えてみよう。例えば、森を歩きながら対話をする。その場合、「あいだ」にある森という場所が、私たちの「第三者」となる。森に差し込む日差しを感じながら、鳥の声や足音を聞きながら、対話をする。その時、私たち二人の対話を促しているのは、おそらく「森」だろう。こうした「第三者のまなざし」を持つことで、対話の質を変える手がかりになるかもしれない。

三つ目の視点は、「複数性の言葉」の使い方、である。言葉は本来、〈諾〉と〈否〉の二重性や複数性を抱えている。「ナポリタンを食べる」と言う時も、「食べない」選択や他の可能性も背負っていた。選ばれなかった言葉にも耳を澄ましながら、それでも今ここで言葉を選んで話す。そうした緊張関係を引き受けること、そして、背後にある差異を意識しながら話すことが「複数性の言葉」となる。

また、「複数性の言葉」の使い方にもいろいろあるだろう。例えば、「ナポリタンを食べたい気持ちもありつつ、カツ丼もいいなとも思いつつ、うーん...」と、複数性のままに話す、ということもありえる。この時、人は直接的に「複数性の言葉」を表現しているとも言える。しかし、この場合、話は長くなる。何が言いたいのか、相手には分かりづらくなる。挙げ句の果てに、「どっちなの?」と問い詰められることもあるだろう。

一方で、間接的に「複数性の言葉」を表現することもできる。例えば、 日本の政治には独特な永田町用語があると、元外交官の佐藤優は言う。ある政治家から「今度、こちらから、挨拶に行くと伝えておいてくれ」と代理の者が言われたならば、それは逆に「そちら側から、すぐにでも挨拶に来い」を意味していると言う。²⁴まさに、こうした言い回しは「一度の同じ言語活動において二重に話す苦労」²⁵であり、表面上の言葉とは真逆の意味を伝えている。

しかし、考えてみれば、気質として「本音と建前」を使い分けたり、察し合う日本人にとっては、ブランショの「複数性の言葉」は、むしろ理解しやすいのかもしれない。

例えば、知人が家に遊びに来ている場面。「そろそろ帰ってほしいな...」と思っても、直接的には言いづらいこともあるだろう。親しい友人なら言えるかもしれないが、お客さんや知り合って間もない関係では難しい。そんな時、何気なく「もう日も暮れてきましたね...」とか言ってみる。時間に目を向けさせ、やんわりと裏の意図を伝えるのである。

つまり、言葉は「単一の意味」に縛られてはいない。言葉には「複数の意味」が入り込む余地が常にあるのだ。そうした言葉の原理をブランショは「複数性の言葉」と呼んだのだろう。もちろん、「複数性の言葉」の使い方に答えはない。あなただったら、どんな場面でどのように活かすだろうか。また、私たちが気づいていないだけで、既に日常に「複数性の言葉」は溢れているのかもしれない。だとすると、どこに「複数性の言葉」が潜んでいるのか、目を凝らし、耳を澄ませてみるのも良いかもしれない。

おわりに

今回は、モーリス・ブランショの「あいだを保つ対話」という対話観を旅してきた。私たちにとって馴染みのある「ダイアローグの対話」に対し、ブランショが提示したのは、あいだを保ち、差異へと開き続ける「アントルティアンの対話」であった。それは「あいだ」に潜む「不在の第三者」の声に耳を澄ませ、「複数性の言葉」を引き受ける「重たい営み」でもあった。

この長い旅路を経て、私たちは、対話が「私」と「あなた」だけの関係に閉じていないことを知った。この視点が、日々のコミュニケーションにおいて、言葉をどのように受け止め、発するのかを見つめ直すきっかけとなれば幸いである。ブランショの示唆は、ダイアローグの対話観を超えて、対話の新たな次元を開く鍵となるだろう。それはこれからの私たちの対話観を支える静かな灯し火となるのかもしれない。


  • ¹ 『終わりなき対話 Ⅰ 複数性の言葉(エクリチュールの言葉)』著:モーリス・ブランショ, 訳:湯浅博雄, 上田和彦, 郷原佳以, 2016, 198–199頁
  • ² 『終わりなき対話 II 限界 – 経験』著:モーリス・ブランショ, 訳:湯浅博雄, 岩野卓司, 上田和彦, 大森晋輔, 西山達也, 西山雄二, 2017, 253–254頁
  • ³ 同上(ブランショ, 前掲載(1), 160頁)
  • ⁴ 同上(ブランショ, 前掲載(1), 188頁)
  • ⁵ 同上(ブランショ, 前掲載(2), 258頁)
  • ⁶ 同上(ブランショ, 前掲載(2), 260頁)
  • ⁷ 同上(ブランショ, 前掲載(1), 161頁)
  • ⁸ 同上(ブランショ, 前掲載(2), 163頁)
  • ⁹ 同上(ブランショ, 前掲載(1), 16頁)
  • ¹⁰ 「疲労の語り/語りの疲労——ブランショ『終わりなき対話』から」郷原佳以(所収『言語態 第2号』東京大学駒場言語態研究会, 2001), 12頁
  • ¹¹ 『文学空間』著:モーリス・ブランショ, 訳:粟津則雄, 出口裕弘, 1962, 28頁
  • ¹² ブランショが「彼=それ〔il〕」を語る背景にはエマニュアル・レヴィナスの哲学がある。特にレヴィナスの「イリヤ〔il y a〕:そこにある」という概念からの影響が見られる。「il y a」は、主体も対象もない、純粋な「存在すること」そのものの重みを指し、時に恐怖や不安を引き起こすような「主語なき存在」を示唆する。ブランショの「il」は、このレヴィナスの「il y a」が示すような、人間が意味を与える以前の、匿名で非人称的な、言葉や意識が捉えきれない、いわば「外側」にあるものだと言える。
  • ¹³ 『終わりなき対話 Ⅲ 書物の不在(中性的なもの・断片的なもの)』著:モーリス・ブランショ, 訳:湯浅博雄, 岩野卓司, 郷原佳以, 西山達也, 安原伸一朗, 2017, 178–179頁
  • ¹⁴ 同上(ブランショ, 前掲載(2), 259–260頁)
  • ¹⁵ 同上(ブランショ, 前掲載(2), 260頁)
  • ¹⁶ 同上(ブランショ, 前掲載(1), 192頁)
  • ¹⁷ 同上(ブランショ, 前掲載(1), 192頁)なお原典では(ウィ)と(ノン)はルビとして付されているが、本稿では括弧により読みを示した。
  • ¹⁸ 同上(ブランショ, 前掲載(1), 192頁)
  • ¹⁹ 同上(ブランショ, 前掲載(1), 192頁)
  • ²⁰ 同上(ブランショ, 前掲載(1), 194頁)
  • ²¹ 同上(ブランショ, 前掲載(1), 194頁)
  • ²² 同上(ブランショ, 前掲載(1), 195頁)
  • ²³ 同上(ブランショ, 前掲載(1), 196頁)
  • ²⁴ YouTube:【佐藤優、来たる】永田町に染まらない政治家!?/知の巨人・佐藤優がチームみらいに見た希望【安野たかひろ】:https://www.youtube.com/watch?v=wNX3ErYY4Cg , 17:18
  • ²⁵ 同上(ブランショ, 前掲載(1), 194頁)

【お知らせ】本連載の連動企画として「対話」を哲学と実践の両面から問い直す動画シリーズ『対話を巡る対話』が公開中。ゲストは哲学研究者の佐々木晃也さん。20世紀の思想家たちの対話観を手がかりに、他者との関係性の中で生まれる複雑な問題への向き合い方を探ります。

20世紀の対話思想をふり返る:“自分の言葉”ってあるの?

20世紀の対話思想をふり返る:“自分の言葉”ってあるの?

学びをシェアする

連載

著者

Background
Banner Image
CULTIBASE Icon

LINEでCULTIBASEの最新情報を受け取りませんか?

組織づくりにおける「探究」のパートナーとして、LINE公式アカウントではピックアップコンテンツやイベント・セミナー等の情報発信を行っています

CULTIBASEについて

CULTIBASE(カルティベース)は、
人と組織の可能性を 見つめなおし、
これからの経営・マネジメントを探究するメディアです。

もっと知る

CULTIBASEをもっと楽しむために

無料の会員登録を行うことで、マネジメント、経営学、デザイン、ファシリテーションなど、組織づくりに関する1000本以上のオリジナルコンテンツと会員向け機能をご利用いただけます。

無料で会員登録する