現われとしての対話 − ハンナ・アーレントの対話観 −【連載】対話観を巡る旅 第5回

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現われとしての対話 − ハンナ・アーレントの対話観 −【連載】対話観を巡る旅 第5回

人は語る。語ることで、人はその姿を公に現わす。私が語る時、私の正体は隠せない。私の存在が曝け出される。語るという行為は、存在の暴露を意味する。

こうした言論の特性を「暴露的特質」¹と呼んだ、20世紀を代表する哲学者がいた。ドイツ出身のアメリカの哲学者ハンナ・アーレント(1906〜1975)である。

「対話の思想家」と思われる人たちの対話観を紹介していく本連載。第5回では、ハンナ・アーレントの対話観を取り上げる。

ちなみに、アーレントは「対話」という言葉をあまり使わない。どちらかと言うと、彼女の主著『人間の条件』を読むと、「言論」という言葉の方が重視されている。

もちろんアーレントの「言論」を容易に「対話」と言い換えることはできない。しかし、アーレントの考えは、「対話」において起こっている現象の本質を明らかにしているようにも思われる。

だから、アーレントは嫌がるかもしれないが、私からみれば、彼女は「対話」において大切なことを言ってくれた「対話の思想家」なのである。

そして、アーレントの対話観を一言で言うならば、私は「現われとしての対話」と名づけてみたい。なぜならば、彼女は「言論」(≒対話)を通して、人は「現われる」し、「何者であるか(Who)」が露呈される、と考えていたからだ。

では、アーレントにとっての「言論」とは何だったのか。アーレントの「言論」を「現われとしての対話」と言い換えることで、私たちの実生活にどう取り入れられるのか。まずは、『人間の条件』の大筋を把握することからはじめよう。

そもそも『人間の条件』ではなかった⋯

まず、最初に言っておかなければならないことがある。それは一般的にはあまり知られていないが、そもそも『人間の条件』というタイトルは、出版社がつけたものである。アーレントの死後に刊行された『精神の生活 上』の中で、彼女はこう語っている。

『人間の条件』というのは出版社がつけた巧みなタイトルであって、私はもっと控えめに「活動的生活」〔The Vita Activa〕の研究とするつもりだったのである。²

こうして最初に、1958年に英語で『The Human Condition』(邦題:『人間の条件』)が出された。また、2年後の1960年、アーレントは母語のドイツ語で、当初想定していた『Vita activa oder Vom tätigen Leben』(逐語的には『ヴィタ・アクティヴァもしくは活動的生』)というタイトルで刊行している。

興味深いことに、そのドイツ語版は「英語からドイツ語へのたんなる翻訳でないのは明らかで、著者が母語で自在に書き足している」³。それゆえ、「優に増補改訂第二版と呼ぶに値する」⁴とも言われる。

そして、2015年には、そのドイツ語版の日本語訳が出され、そこでのタイトルは『活動的生』となっている。

少し複雑な出版経緯を丁寧に見てきたが、ここで伝えたかったことは、次のことである。つまり、アーレントが強く関心を寄せていたのは、「人間の条件」というより、むしろ「活動的生」の方なのだと。

では、その「活動的生」とはいったい何なのか。

活動的生とは何か:労働・制作・行為

そもそも「活動的生」(Vita activa:ヴィタ・アクティヴァ)という言葉は、ラテン語である。そして「観想的生」(Vita contemplativa:ヴィタ・コンテンプリティヴァ)⁵と対をなすものである。

「観想的生」とは、大雑把に理解するならば、主に古代ギリシアの哲学者たち──例えば、プラトンやアリストテレスによって理想とされた生き方である。この生き方では、思索を通じて「真理」を追求することに価値を置いている。

「活動的生」とは、その逆であり、静かに思索にふけるのではなく、この現実世界において、動的に活発に活動することの総体を指す。

アーレントによると、「近代の始まりまでは、活動的生という観念には否定的な面がつねに付きまとって」いて、「あらゆる活動に対して観想が絶対的優位を誇った」という。⁶

つまり、長らく「観想的生」に価値が置かれ、「活動的生」は蔑ろにされた。その結果、「活動的生」の内実が曖昧になり、ぼやけてしまった。そこで、アーレントは「活動的生」の内実を明らかにしようとしたのである。

彼女は「活動的生」と一括りにされていたものを三つの人間の根本活動に分けて捉え直した。それが、「労働(Arbeiten)」「制作(Herstellen)」「行為(Handeln)」⁷である。それぞれの意味を、順に確認していこう。

まず、「労働」とは、生命維持のために必要な営みである。例えば、ご飯をつくる、食べる、掃除をする、子どもを育てる。このような営みは、人間の生物的な条件に基づいており、終わりのない循環として、私の命を支えている。

次に、「制作」とは、「もの」をつくり出す営みである。例えば、家を建てる、器をつくる、小説を書く、現代で言えば、動画制作もその一つだろう。いずれにせよ、制作の産物は一度つくられると、一定の耐久性を持ち、しばらくその形を保ち、他者の使用や享受の対象となる。つまり、「制作は、さまざまな物から成る人工的世界を生み出す」⁸のである。

最後に、「行為」とは、公共空間において、自己の存在を現わし、相互に関係を築いていく営みである。アーレントは、「行為」を最も重視した。なぜなら、そこには唯一無二の個性が直接的に最も色濃く現われるからである。そして、この「行為」の中に「言論」すなわち他者と語り合うこと、私たちが「対話」と呼ぶ営みが含まれている。

つまり、「活動的生」とは、人間がこの世界において生き、何かをつくり出し、他者と関わるという、三つの根本的な営み——『労働』『制作』『行為』を総称する概念なのである。

もちろん、この三つの根本活動は、明確に区分されるものでもない。例えば、現代の文脈で考えれば、制作そのものが労働になっている人もいるだろうし、行為や言論(≒対話)を通して制作に向かう人もいるだろう。

したがって、実際には、この三つの根本活動は、各人の中では複雑に絡まり合い、その人にとっての展開がなされている、と考えてみると良いかもしれない。

それでは、アーレントが重視した⁹「行為」とは何か。見ていこう。

第二の誕生:行為と言論による人間の「現われ」

まずは、アーレントの声に耳を澄ませよう。

言論と行為は、この唯一無比性が示される活動である。語り、行為しつつ人間は、たんに相違しているだけでなく、おたがいどうし能動的に区別し合う。言論と行為は、人間存在それ自体があらわとなる様態なのである。¹⁰

つまり、言論と行為は、存在を露わにさせる。言われてみれば、当たり前のことでもある。例えば、人前に立って何か話す場面で、その人の手や声が震えていたならば、その佇まいから緊張感が伝わるだろう。また、言論の内容や言葉づかいなどからも、その人の人格や癖などが露呈されていく。

そして、アーレントは、この言論と行為による「現われ」の出来事を、きわめて詩的な言い方で「第二の誕生」と呼ぶ。

語り、行為しつつわれわれは、人びとの世界に参入していく。この場合、世界は、そこにわれわれが生まれる以前から、現に存在していたものである。こうした参入は、第二の誕生のごときものであって、そのようにしてわれわれは、生まれたというはだかの事実を確証するのであり、出生の事実に対する責任をいわばわが身に引き受けるのである。¹¹

さらに興味深いことに、人間が露わとなってしまう「暴露的特質」は、自分ではコントロールできない。アーレントはこう言う。

ある人が真に人格としてそのつど誰であるかは、われわれのコントロールから逃れてしまう。なぜならそれは、われわれの言葉と行ないすべてのうちに何気なく、ともにおのずからあらわとなるからである。(⋯)ひとたびそれが公然と現われてしまえば、この世のどんな意図によってであれ、自分が誰であるかを自在に操るなどありえない。¹²

確かに、「何を言うか(言論)」「何をするか(行為)」という「What」は、ある程度、コントロールできるかもしれない。しかし、それらによって現われ出てしまう「誰であるか」という「Who」は、コントロール不可能である。つまり、何気ない言論と行為を通して、私たちの存在は、そのつど世界に滲み出てしまっているのである。

しかも、こうして露わとなった自己の存在は、「現われている本人にはつねに隠されたままである」¹³と彼女は言う。つまり、言論と行為によって、自己の存在は他者に向けては現われるが、本人には隠されてしまうのである

相手には見えているのだけど、自分には見えていない。考えてみれば、多くのコミュニケーションのトラブルは、このような齟齬から生じているとも言える。例えば、悪気なく言った一言が、相手をひどく傷つけていても、自分は全く気づいていなかった、ということはよく起こる。つまり、「相手を傷つけている自分」という姿は、相手からは明白だが、自分には目隠しになっているのである。

とするならば、齟齬を解消するには、他の人から率直にどう見えているかを言ってもらう必要も出てくるだろう。さらに面白いのは、フィードバックした側もそれによって、新たに自己が露呈される、ということである。

つまり、対話とは、言論と行為を通じて、互いの存在がともに現われ続ける営みなのだ。

こうして、対話は「互いに現われ合う」という、創造的で開かれた営みになる。しかし、それは同時に、互いの差異性が絶えず可視化され続けることも意味する。そう考えると、対話を続けた先で、対立や衝突が起こることもあるだろう。また、言葉によって傷つけられたり、逆に傷つけてしまったりすることもあるはずだ。

つまり、ともに現われ合うからこその危険が、常に対話にはつきまとっている。

では、どうしたら良いのか。そこで、アーレントは、私たちに「赦し」と「約束」という救済策を提示する。見てみよう。

赦しと約束の力

まず、対話には不可逆性がある。つまり、言ってしまったことは、元に戻せない。後から訂正もできるが、「一度でもそのように言った」という事実が消えるわけではない。

そこには、アーレントの言葉を借りるならば、「取り返しのつかなさ」というものが潜んでいる。彼女は、私たちの行為が必ずしも意図通りに受け取られないことや、予測できない未来に晒されていることを見据えて、こう語る。

取り返しのつかなさ——つまり、いったん為されたことは、元通りにすることができず、たとえ、自分が何を為したかを知らず、知るよしもなかったとしても、そうだということ——に対する救済策は、赦すという人間の能力のうちにひそんでいる。そして、予測のつかなさ——またそれとともに、どんな未来の事柄にもまつわるカオス的な不確実性——に対する救済策は、約束を交わし、守るという能力のうちにひそんでいる。¹⁴

つまり、人は時に、過ちを犯し、間違い、失敗する。しかし、その取り返しのつかないことをしてしまった相手に対して、私たちは「赦す」ことができる。赦しが可能だからこそ、再びともに生きていく道がひらかれるのだ。

また同時に、アーレントは「予測のつかなさ」に対する救済策に「約束」を挙げている。いかに統計学が進んだとしても、人間の行動が全て予測できるわけではない。人間は、時に予測のつかない行動をする。突拍子もない行為もする。

対話においても、それは同様である。対話の結果は、予測できない。だからこそ、「約束」が大切になる。広い意味では、憲法や法律や戒律も「約束」の一つだろう。例えば、「汝、殺すなかれ」という戒律が、その行為を踏みとどまらせるかもしれない。

狭い意味では、例えば、対話の場づくりやファシリテーションをする者であれば、冒頭で共有する「グラウンド・ルール」や「大切にしたいこと」も「約束」だと言える。先に、約束を敷いておくことで、対話における「予測のつかなさ」に働きかけているのである。

さて、ここまで、アーレントの「現われとしての対話」と、その危険に対する二つの処方箋「赦しと約束」を紹介してきた。

最後に、アーレントの「思考」についての考えも紹介したい。

アーレントは、『活動的生』の冒頭で、「人間の知っている最高の、かつおそらく最も純粋な活動である思考という営みは、以下の考察の枠内からは外される」¹⁵と言い、「思考」をあえて取り扱わなかった。

しかし、アーレントは晩年に「思考」について書き残している。特に『精神の生活 上』で提示された「一者のなかの二者」という概念は、アーレントの対話観を深めていく上で、重要な手がかりとなるだろう。

対話とは「他者と語り合う営み」であると同時に、「自分自身と語り合う営み」でもある。だからこそ、「思考」の問題は、対話観を考える上でも避けて通れない。

次の節では、「一者のなかの二者」を解説すると同時に、アーレントの考えを私なりに発展させた「一者のなかの多者」について紹介したい。

一者のなかの多者

アーレントは、かつてソクラテスがえぐり出した思考の本質を、「一者のなかの二者(two-in-one)」と呼び、自分と内なる自分自身との対話こそが、思考の鍵だと考えた。彼女はこう言う。

私という人間は他人に対しているだけでなく私自身にも対しており、この後者の場合には明らかに私はたんに一人であるわけではない。私の一人であることの中に差異が持ち込まれているのである。¹⁶

確かに、何かを思考している時、自分は自分自身と対話している。例えば、道に迷った時、「あれ?この道で合ってるかな?」と自分自身に問いかけてみたり、「この看板が目印だったんじゃない?」と答えたりもする。

つまり、「自分自身との二重性があるからこそ、思考が真の活動たりうるのであって、私が問うものであると同時に答えるものにもなる」¹⁷のである。

さらに、興味深いことに、アーレントの言う「内なる自分自身」(自己)とは何かを明らかにしている研究(橋爪, 2018)¹⁸もある。そこでは、〈生を共に過ごしたい仲間〉こそが〈自己〉である、と言われる。橋爪はこう述べる。

〈自己との対話〉 の〈自己〉とは、〈生を共に過ごしたい仲間〉である「他者」ということになり、〈自己との対話〉の〈自己〉には他者性が含まれると言える。¹⁹

つまり、内なる自分自身の正体は、これまでに出会い、関わってきた仲間たちなのである。また、哲学研究者の佐々木は「哲学×対話(概論)」の中でこうも言っている。

「自己」とは、「共に生きていきたい仲間」のことであり、またその仲間には、存命の人たち(家族や友人)だけでなく、すでに亡くなった人たち、さらには映画や漫画に出てくるキャラクターも含まれます²⁰

要するに、内なる自分自身(=生を共に過ごしたい仲間)には死者や架空のキャラクターさえも含まれる。こう言われてみれば、確かに、私の中には亡くなったあの人はいるし、好きなアニメのキャラクターも存在する。それらの総体のような塊が「内なる自分自身」であることには納得がいく。

とすると、「一者のなかの二者」とは、より解像度を上げるならば、「一者のなかの多者」とも言えるのではないだろうか。つまり、一者(私)の中には、もう一者(私自身)がいる。そして、内なる一者(私自身)を形成しているのは、「生を共に過ごしたい仲間」という「多者」なのである。

そう考えるならば、二者間の対話において起こっている事態は、表面以上に複雑なことになる。なぜならば、二人が対話をしている背後では、それぞれの内に「多者」が控えているからである。

つまり、表では「一者と一者の対話」がなされているが、その裏では目には見えない膨大な「多者と多者の対話」が展開されているように思われる。

その時、私の言葉とは、そうした内なる「多者」たちの代弁者の声でもある。そう捉えると、一人の声は、同時に、何十人、何百人、何千人、いや、もっと大きな歴史から生まれ出てきた声だとも言える。

「現われとしての対話」をどう活かせるのか

さて、今回はアーレントの対話観を紹介してきたが、「現われとしての対話」を私たちはどう活かしていけるだろうか。最後に、私なりの視点を3つ挙げたい。

まず、1つ目は、どこで現われるのか、という「Where」の視点である。

アーレントは、公共空間において、行為と言論を通して、ともに現われ出ることの重要性を説いた。例えば、古代ギリシアであれば、アゴラ(広場)に姿を現わし、言論によって、より存在が現われることになる。

このことは、現代を生きる私たちにも示唆的である。例えば、コロナ禍を経て、リモートワークも増えたが、オンラインも一つの「現われの空間」とも言える。

しかし、近年では、リモートから出社へと方針を転換する企業も増えている。そこには様々な理由もあるだろうが、存在の「現われ度合い」は大きく異なるように思われる。

当然、対面で直接に会っている方が「現われ度合い」は高まる。オンラインでは、基本的に顔と上半身しか見られないこともあり、ましてや画面オフにしてしまえば、さらに「現われ度合い」は低くなる。

例えば、ある会議のファシリテーターが、会議室に参加者が集まる前に、話しやすいようにテーブルの配置を工夫したり、会議室の扉を開けておいたとする。まさに、それも一つの「行為」であり、その人の姿勢や想いが、すでにそこに滲み出ている。

対面の対話においては、何を言うか(言論)も重要だが、どう振る舞うか(行為)によっても、その存在がより露わになる。

2つ目は、恐れず現われてみませんか、という提案である。

もちろん、対人恐怖症や何らかの事情を抱えている方に対しては、無理やり表に引っ張り出そうとは思わない。しかし、他者との関わりや対話を望むのであれば、画面オフでもいいから、まずはオンラインの空間に現われてみるのも一つかもしれない。チャットや文字だけの空間においても、人は現われることはできる。

慣れてきたら、画面をオンにして現われてみたり、声を発してより一層、現われてみる。その延長線上で、最終的には対面でも現われてみる、ということもあるのかもしれない。

そうやって、状況や目的に応じて「現われ度合い」を調整するということも、より良い人間関係をつくっていくためには、時には必要だろう。

もちろん、現われ度合いが高まると、差異が顕在化され、対立や衝突の可能性も高まる。しかし、アーレントも言うように、だからこそ、人間には「赦しと約束の力」が備わっているのである。「取り返しのつかなさ」には、赦しを。「予測のつかなさ」には、約束を。

むしろ、この「赦しと約束の力」があるからこそ、人間は安心して、現われ出ることが可能になるのである。

3つ目は、目の前の他者を「多者」として見る眼差し、である。

最後に「一者のなかの多者」という視点を共有したが、まさに、その視点を持つことで、目の前の他者が「一者」ではなくなり、「多者」となる。

「この人の背後には、多くの存在が控えている...」と思えたら、不満や憤りを覚えるような出来事に遭遇しても、個人を強く責め立てる気が少しは軽減するかもしれない。

つまり、「一者のなかの多者」という視点は、私たちをより謙虚に寛容にさせるだろう。

逆に、「私にも、多くの多者が既に関与しているのだ」と思えると、自分という個人を過度に責め立てることなく、自分自身に対しても、少し優しくなれるのかもしれない。

おわりに

今回、アーレントの対話観を「現われとしての対話」と名づけてみた。自分の存在が他者の前に現われ出るということは、時に恐さや危うさを伴うものでもある。しかし、その恐さに向き合いながら、互いに現われ続けようとする営みの中にこそ、対話の深まりがあるのだと思う。そして、そのとき私たちは、一人で語っているのではなく、無数の「私たち」と共に語っている。

次回は、これまで前提にしてきた「ダイアローグの対話観」を越えていこうと思う。20世紀フランス最大の作家・批評家モーリス・ブランショの「アントルティアンの対話観」に耳を傾けてみたい。


  • ¹ 『人間の条件』著:ハンナ アレント, 訳:志水速雄, ちくま学芸文庫, 1994, 292頁(※ドイツ語版からの翻訳書である『活動的生』では「開示的性質」とも訳されるが、本稿では、自己の存在の「現われ」はコントロールできないことを強調するために「暴露的特質」を採用する)
  • ² 『精神の生活 上 ― 第一部 思考』著:ハンナ・アーレント, 訳:佐藤和夫, 岩波書店, 2015( オンデマンド版), 8頁
  • ³ 『活動的生』著:ハンナ・アーレント, 訳:森 一郎, みすず書房, 2015, 520頁
  • ⁴ 同上, 519頁
  • ⁵ 『人間の条件』の志水訳(1994)と牧野訳(2023)では「vita contemplativa」は「観照的生活」と訳されるが、『活動的生』では「観想的生」と訳されている。本稿では、「活動的生」の対比語として明確であること、また、内面的・現代的文脈をふまえ、「観想的生」の訳を採用する。
  • ⁶ 同上(アーレント, 前掲載(3), 22頁)
  • ⁷ 「制作」「行為」は英語版では「work」「action」と表記され、「仕事」「活動」と訳されることもある。私も訳語の選択に迷ったが、アーレント自身が後にドイツ語で書き直した語感や意図を汲み、『活動的生』における表記にも準拠して、「労働」「制作」「行為」の三語を採用する。
  • ⁸ 同上(アーレント, 前掲載(3), 11頁)
  • ⁹ 「重視した」と書いたが、厳密にはそう断言できるわけではない。というのも、『人間の条件』(ちくま学芸文庫)の訳者である志水速雄が紹介しているように、彼がアーレントに行ったインタビューの中で、アーレント自身は「三つの『活動力』のヒエラルキーの変化を示そうとしただけで、自分がとくにどの『活動』を高く評価しているということではない」と語っているからだ。ただし志水は、続けてこうも述べている。「しかし本書を読めばおのずとわかるように、少なくとも彼女が『労働』の勝利を双手をあげて歓迎しているのでないことは明らかである」と。さらに志水は推し量って、アーレントは人間が自分の姿を現わす「行為」に高い評価を与え、「行為」の空間である「公的領域」の出現を望んでいる、と捉えた。要するに、アーレント本人は三つの活動を公平に示したつもりだったかもしれないが、読者の目には「行為」に特別な重みを置いているように映る、というわけである。
  • ¹⁰ 同上(アーレント, 前掲載(3), 218頁)
  • ¹¹ 同上(アーレント, 前掲載(3), 219頁)
  • ¹² 同上(アーレント, 前掲載(3), 224頁)
  • ¹³ 同上(アーレント, 前掲載(3), 224頁)
  • ¹⁴ 同上(アーレント, 前掲載(3), 310頁)
  • ¹⁵ 同上(アーレント, 前掲載(3), 9頁)
  • ¹⁶ 同上(アーレント, 前掲載(2), 212頁)
  • ¹⁷ 同上(アーレント, 前掲載(2), 215頁)
  • ¹⁸ 『アーレントの道徳哲学論としての<自己との対話>論について』橋爪由紀, 博士論文, 2018(大阪公立大学 学術情報リポジトリから取得:https://omu.repo.nii.ac.jp/records/2569
  • ¹⁹ 同上, 37頁
  • ²⁰ 「哲学×対話(概論)」(所収『対話をめぐる旅——豊かな関係のデザイン』編著:岩元宏輔, 京都芸術大学 東北芸術工科大学 出版局 藝術学舎, 2025), 佐々木晃也, 160-161頁

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